クアラルンプールは近代都市だった。例によって僕一人がウィスキーをなめなめ,ホテルの窓越しの夜景を眺めている。
 午後遅く着いた空港にはタクシーの運ちゃんの群もなく,ひとり100リンギットでどうかと持ちかけてくるのがいたが,断るとあっさりと立ち去っていった。僕らは前払いチケット制のタクシーに乗ることとした。
 曇っているせいか空気にベトナムのような火照りがない。過ごしやすいと言ってもいいぐらいの気温だ。
 運転手はトルコ帽をかぶった小柄で人の良さそうな人だ。そうだ,ここはイスラム圏なのだ。市内までの道はきれいな高速道路で,道沿いにイスラム的な建築物や日本企業の看板などが散見される。
 1時間ほどでホテルに着く。運転手はごねることもなく,チップをあげるとにこにこして礼を言った。何という違い。
 さて,今夜一晩の宿はリッツカールトンホテルだ。ホテル好きのNさんの希望だ。先進国ではとうてい泊まれないような超高級ホテルがここでは安く泊まれるのだ。
 さすがにホテルマンの対応も良く,部屋も素晴らしい。ふかふかの分厚いベッドの横にはウェルカムフルーツが置いてある。エクストラベッドもそこら辺のホテルのベッドよりも寝心地が良さそうだ。Nさんは念願かなってはしゃいでいる。
 さて,それじゃだれがエクストラベッドに寝るか約束通りじゃんけんしよう,と言い出すと,Nさんが殺生なという顔をして,どうしても豪華備え付けベッドに寝たいと言い出した。
 曰く「最初のマレーシアでは僕がエクストラだったやないですか」
でも最初からベトナムはローテーション,他はじゃんけんという約束だったし。
 「リッツカールトンに泊まるのがずーっと夢だったんだや」
ああそれは良かったね。
 「エクストラだったらせっかくの気分も半減や」
それはみんな同じ。
 まだ負けると決まった訳じゃないし,それだけ思い入れがあるなら大丈夫だよ。
 かわいそうだが勝負は公平に。
 最初はグッ,ジャンケン・・。
 「ちょっと待って」とNさん。
 「ちょっと練習,そこのお菓子2ヶしかないから,まず,だれが食べるかジャンケンで決めよう」
最初はグッ,ジャンケンポン。
 あ,Nさんの負け。
 「わー。ジャンケンは止めましょ。アミダでやって」
早速アミダ作成。
 Nさんは,奇妙な動きで東南アジア方面のあらゆる神様にお願いしている。エイッと渾身の選択。
 僕とMちゃんはナニゲに決める。
 2人注視,1人全身全霊のお祈りの中,はずれの道を逆から辿っていく。
 あ,Nさんだ。
 「うそー,見せてっ」
紙が破れるぐらい何度も何度もアミダをなぞるNさんの目からは涙がこぼれんばかりだ。
 僕とMちゃんは何事もなかったように,新聞を見たり荷物の整理をする。
 Nさんはすっかり落ち込んで,それでも未練を断ち切るべく健気に心の整理をしているようだ。
 しばらく気まずい時が流れた。

 「代わって上げようか。」僕が沈黙を破る。
 「え」っと耳を疑うNさん。
 「俺は大通公園のベンチで寝たこともあるし,どこでもいいよ。」
「本当!」
 Nさんのしおれた顔がぱっと輝く。
 それからは小躍りをするわ,土下座するわ,本当にいいのと一瞬不安そうになるわ,一転して手を取って涙目で礼を言うわ,そんなに嬉しいなら譲った甲斐があったなと思わせる喜びの表現だった。
 亡き桂支雀師匠は,緊張から緩和するところに笑いがある,と喝破していた。音楽の本質もドミナントからトニック,不安から安心への移行だ。
 ぼくは最初からエクストラベッドでも構わなかったけれど,Nさんに一旦地獄を見せたからこそ天国的喜びに浸ることが出来たというわけだ。何てね。