Nさんが帰ってきた。手には粗末な段ボールの大きな荷物を抱えている。
シクロに乗って、ぼられそうになったとわめいている。降りるときになって最初の交渉値よりふっかけられたので、無視して歩いてきたという。アメリカあたりでは信じられないが、まだ純朴というか、Nさんのアジア経験では、後を追われて暴力沙汰とはならないらしい。一応言うだけ言って見て、客が払えば儲けものというスタイルなんだろう。でも中心部のホテル前だから大丈夫だっただけかもしれない。
段ボール箱は漆塗りのパネルだという。開けてみると、黒塗りの地に金色でメコンの風景を描いた旅情あふれるものだった。4枚組のパネルになっている。
55ドルを30ドルまで負けさせたらしい。最初は値引きに応じなかったのを、何回も物欲しげにうろうろして根負けさせ、さらに財布の中身をわざとらしく数えて悲しげな顔をするという、2段ロケットの交渉の末、その値段になったと手柄顔で教えてくれた。恐るべしNさん。
夕食はフランス料理にすることにした。ガイドブックで探したレトワールという店に予約の電話を入れる。サイゴンにはベトナムに住み着いたフランス人シェフが水準の高いフランス料理を食べ刺さる店が多くあるらしい。おなかの調子も大分いい。
夜、郵便局前のロータリーで相変わらず永遠にぐるぐる回り続けるバイクの群を横目に通り過ぎ、予約したレストランに向かう。ちょっと離れているが都心とは別の顔を見せる街並みが興味深い。
すれ違った女に声をかけられる。誘うような目で何か言っている。何を言っているかは良く分かる。でもそんなつもりはないから、無視して歩くと、腕を捕まえられた。引き留めようとしながら、しつこくついてくる。前を歩く二人は気づかずにどんどんゆく。僕は面倒になって、力ずくで邪険に腕をふりほどいた。でも後になって胸が痛んだ。もっと人間らしく断れなかったろうかと。
目的の場所に来ても、目立った看板もなく、暗いのでよく分からない。
小路の奥に店らしき明かりが見えるので近づくと、外に立っているウェイターらしき人が「ミスターイマイ?」と問いかけてきた。わざわざ待っていたのだろうか。店はパリのビストロ程度のこぢんまりしたアットホームな雰囲気で、ほかに客はいない。奥の個室に通された。調度も、素朴だがしっかりした作りのものだ。
フランス人らしきオーナー自ら注文を取りにくる。各自24ドルのコースを頼み、僕はワインをもらう。壁にはそのオーナーが何かの賞を取ったらしい写真と賞状が飾ってある。前菜から始まり、メインディッシュに至る頃、Mちゃんが次第に無口になってきた。全然食べられないという。元々大食漢ではないし、無理することはないよ、残しな、と言ってるうち、コーヒーが運ばれてきた。料理は3千円ぐらいだから値段相応というか、普通のレベルだった。
Mちゃんが、だめだ、気持ち悪い。と言って下を向いてしまった。水がほしいという。ウェイターに持ってこさせ、飲ませる。真っ青な顔をしている。こんどはMちゃんがやられたか。心配顔の店員たちに、おいしかったと言って店を出、タクシーを捕まえる。このタクシーはメーターだし余計なことも言わず、ホテルまで届けてくれた。
Mちゃんを寝かせ、Nさんと原因を考える。昼に食べたゆで卵だ、という結論になった。でも一緒に食べたNさんは?やはりアジアウォーカーの面目躍如か。
しかし、しばらくNさんと話しているうち、彼も調子が悪いと言ってトイレにこもりっきりになった。これで全滅だ。
彼が寝た後も僕はウィスキーをなめながら、また窓からの風景を眺める。
昼間見た親父がまだ歩道のイスに座っている。時計を見ると9時間は経過している。12時をすぎるとさすがにバイクもまばらになってくる。イスのオヤジもいつのまにか家に帰ったようだ。
男女相乗りの一台のバイクが道行く男に声をかけている。バイクの男が道に降りてしばらく男と話している間、後部座席のアオザイを来た女はじっと待っている。しばらくして声をかけられた男が急に歩き出す。それをバイクで追いかけて捕まえ、また何やら話し込んでいる。ずいぶん長い時間の後、女がバイクから降り男と一緒に小路へ消えた。バイクの男は一人で走り去る。
走り去った方から目を戻すと、シクロの運転手が客席で眠りこけている。
僕はベトナム最後の夜に小さく乾杯して、グラスを置いた。