ミトーと対岸の巨大な三角州ベンチェーに着くと,支流をさかのぼっていく。暑さもピークに向かって駆け足で昇っていく。
鬱蒼としたジャングルの中を少し行き,簡易な船着き場で降ろされる。ここから15分ほど歩いて奥地の蜂蜜農園に行くという。鬱蒼とした森の小道を歩く。道々,トンさんがあれはパンの実,それは何とかの実と解説する。たしかにそこここに得体の知れない木の実が沢山なっている。農園に着くと,また東屋があってテーブルにティーカップが並べてある。中を見るとそ底に蜂蜜が入っており,紅茶が注がれた。トンさんの指示に従い横に置いてあるスダチのようなものをしぼって飲む。フツーのハニーティーだ。
丸テーブルには僕らを含め7,8人が座っていて,その中に東洋人の女がいる。30歳前後で色が抜けるように白い。隣のMちゃんにどこから来たのかとか,ペラペラッと英語で話しかけた。Mちゃんは苦笑いして,俺全然わからねえから頼む,と言う目で僕の方を見る。それで,日本からと答え,あなたはどこからと聞くと上海からだという。自分をチャイニーズとは言わずシャンハイニーズと答えるところが中国の広大さを思い出させる。色々はなしてみると,貿易関係の仕事をしており,上海から来てもう2ヶ月になるという。東京にも何度か行って親友がいるとか。笑顔が妖艶で何だか怪しい雰囲気だ。同じテーブルのアメリカ人が話しを引き取っている間,テーブル中央においてあるペットボトルの白濁した液体を飲んでみる。蜂蜜ワインだという。トンさんによれば蜂蜜と米焼酎を混ぜただけらしいが,酒なら何でもアリのぼくは,よく見るとハチの死骸も混ざっているボトルから2,3杯飲んだ。
そのうち四阿の上にイスが並べられ楽器を持った男3人と若い女性が上がってきた,5弦ギター,鼓弓のようなもの,太鼓の演奏が始まり,清楚な感じのする女性が歌い出した。頭のてっぺんから出すような細く張りのある声で独特のこぶしを回す。古い民謡のようだ。いいなあ。3曲ぐらいうっとりと歌って帰っていった。この暑さ,この緑,花柄のアオザイ,そしてあの歌声。
Nさん「男の方は拍手もらってもにこりともしないな」。僕「ミュージシャンなんて世界中そんなもんだよ」。
Nさんは今回の旅にデジタルカメラを持ってきており,上海女とMちゃんをツーショットで撮る。彼女は妖艶な笑顔で体を寄せたが,Mちゃんはちょっといやがっている。Nさんが僕にも一緒に撮ってあげると言ったが,わざわざ席を立ってまで撮ってもらうのも面倒なので,いいよいいよと遠慮した。当然彼女にもそのやりとりはわかるはずで,妖艶な愛想笑いのなかで,目だけがきらりと光った。
船着き場に戻るため歩いていると,先をゆく上海女のヘソ出しルックの肌があまりにも白い。Mちゃんが「ベトナムに2ヶ月もいてあんなに肌が白いのはおかしい」とか「絶対あいつは怪しい。ほかの奴も避けてるみたいだぜ」とか,好き勝手に非難している。
歩いているうちになぜかちょっと胃のあたりが痛くなってきた。
船着き場で手漕ぎのボートに乗り換える。4人乗りだ。他の日本人グループとデジカメ談義をしていたNさんが一人遅れて,別の船になる。
船頭さんは船尾にしゃがみ込んで櫓を漕ぐ。川を遡り,さらに奥地に入り込んでいく。川幅は小舟がやっとすれ違えるぐらいになる。手を伸ばせば川岸の植物に触れることができるほどだ。静かだ。櫓の音と密林から時々聞こえる動物の声。泥の川に日溜まりが溶け込んでいく。滑るように進む小舟。ここはどこだろう。僕らは何処から来て何処へ行くのか。
密林の奥に小道が続く粗末な船着き場に着いた。上陸するとその様子を見ていたかわいい子供たちが数人寄ってきた。手に手に草の葉で作った細工を持っている。そのうちの一人の女の子が,茎の先端に葉を器用に織り込んだフナムシのようなゴキブリのような虫が付いたものを僕に渡そうとする。どうせ商売だろうと相手にしないで先へ進むと,遠慮がちに着いてくきて渡そうとする。ひょっとしてウェルカムのアトラクションだろうかと,ノーマネー?と聞くとそうだと首を振る。じゃあもらっておこう。女の子は離れていった。みんなそろうのを待って歩き始めると,先ほどの女の子が走り寄ってきて,マネーと小さな声で言う。やっぱりかと思って虫細工を返すとがっかりした顔で受け取った。かわいそうだけどね。たくましく育っておくれ。
また歩かされるのかと思ったが5分ぐらいだという。道沿いに木造のバス待合所のようなものがあり中にイスが一脚おいてある。壁には作り笑顔の美男美女の写真が貼ってあり,ハサミや櫛がおいてあるところを見ると床屋だろう。
着いたところは椰子の実キャンディーの工場だった。
トンさんがまず皆に一個ずつキャンディーを配る。
オブラートに包まれたキャラメルのようなもので,口に含むと柔らかくて異常に甘い。椰子の油でギトギトしている。バターの固まりを食べているような感じだ。
薄暗い工場の内部を見学する。
工場といっても家内制手工業からマニュファクチュアになったばかりと言う感じで,大釜に煮た原料を鉄板の上に流して冷やし,裁断機で切ったものを,数人のおばちゃん方がオブラートから箱詰めまで全て手作業で行っている。
ここでツアー定番の即売会があったが,僕は遠慮した。
外では原料となる椰子の実を積んであり,その脇で上半身裸の若い男が黙々と皮をむいている。先の曲がった専用の鉈でまず二つ割りにし,くるりと中の白い果実を取りだしている。お椀状になった皮は後ろも見ず肩越しに放り投げ,そこには皮の山ができている。これらの作業を目にも留まらぬ早さで繰り返している。
やっぱり胃が痛い。僕はツアー客から離れ工場前の木陰に座って休んだ。木漏れ日の中で犬が昼寝している。荷台の大きい自転車がポツンとおかれ,ハンドルに菅笠がかけられている。その濃い影。
またボートに戻り,密林の中を小舟が滑っていく。
胃が痛い。はっきりとした痛みの波がときどき押し寄せる。ミネラルウォーターを飲むとちょっとおさまる気がして,がぶ飲みする。先頭に座るMちゃんが振り返って盛んに心配してくれる。
いつのまにか舟はちょっと広くて明るい支流に出た。船着き場が見え,船が群がっている。ほとんど他のツアーだが,地元小中学生の団体と思われる船もある。我々の船はその小中軍団船の横をすり抜けて行くらしい。ところがその船が次第に横向きに流れ,僕らの船とぶつかりそうになる。先頭のMちゃんは,ワーぶつかるぞオイ,焦っている。あーーーー,ドッカン。と,やはりすれ違いきれずぶつかってしまった。ところが船頭同士はにやにやしているし,子供らは大喜びしているし,おおらかなもんだ。いい国だなあ。
ここで,来るとき乗った小ぶりのモーター付きボートに直接乗り換える。いつのまにかNさんの乗る小舟の方が早く着いており,先に乗り換えている。その彼が何か叫んでいる。身振りからするにタバコが切れたらしい。僕が予備を持っているのを知っているのだ。そこで,一箱取り出す。彼の船とは5mぐらい離れ,こちらの船はその横を動いて離れつつある。その間にはメコンが流れる。躊躇せず,ねらいを定めて放り投げると。胸元にストライク。一部始終を見ていた周りの連中が「ほう」と賞賛の声を上げた。拍手もパラパラ起こった。得意顔で小舟から次の船へ移るとき,船を覆うビニール屋根の鉄枠に頭を思い切りぶつけた。それを見ていた船頭が,そんなに笑わなくてもいいだろうというほど,大笑いした。メコンの旅情である。
船はサービスのつもりか猛スピードで飛ばし,しぶきが時々顔にかかる。しぶきはメコンの生水だと思うと不安になり,固く口を閉じる。
胃の痛みは相変わらずで,川風でゾクゾクしてくる。Mちゃんに聞くとそんなに寒くないという。
メコンに雲がかかり,色彩が失われていく。
最初に乗った大型ボートに乗り換えNさんとも合流する。
出発点に戻るとまた午後の酷暑は失われていない。魚のにおいと低い青空に押しつぶされるようだ。僕は腰を折り曲げてお腹を押さえながらバスに乗り込む。
走り続けるバスの中で胃の痛みは断続的に押し寄せてくる。どこかに停まったようだ。皆の後について降りると,誇りっぽい道ばたに立つ木造の小屋にぞろぞろと入っていく。
僕はたまらず,小屋の脇の路地にある丸イスに腰掛けて蹲り,目をつぶる。寒気がするので,背中の陽射しが有り難い。小屋の中からなにやら歓声が聞こえる。風の音もしない。
どれぐらい時間がたったろうか。ドンと何かが地面にぶつかる音がして目を開けた。すぐ側に椰子の実が転がっている。見上げるとペンキのような青空に椰子の葉の濃い緑のシルエットが張り付いている。その中心には椰子の実が数個。脳天直撃はごめんなのでいやいや立ち上がると,皆小屋から戻りバスへ向かっている。
聞くと,そこは蛇の飼育場で,客の首に蛇を巻いて写真を撮る商売もやっているらしい。
7$しか払ってないのだからツアーはもう十分。お腹いっぱい。早く帰らせてくれ。
との願いが通じたのかこれで全行程終了,後は帰るだけだ。でも確か市内まで2時間以上かかるよなあ。
NさんもMちゃんも心配してくれ,僕は窓に身を寄せて必死に腹痛をこらえる。なぜ僕だけが。今日口にしたもので彼らと唯一違うものと言えば,あの上海女と一緒に飲んだ蜂蜜ワインだけだ。やはり酒飲みへの罰か。でも,アルコールが相当きつかったから,細菌とかはいないような気がするし,第一それを飲んでいた他のツアー客はみな平気な顔をしている。釈然としない。
窓ガラスを溶かさんばかりに照りつける日光の中なで,寒気で震え脂汗をかいて痛みに耐え続けた。ジャングルの泥の中で熱病にかかって死んでいく兵士の幻想が頭から離れなかった。熱帯に死す。
永遠とも思える時間の後,バスはついにシンカフェに到着した。インテリのトンさんは一人一人に笑顔で別れの挨拶をしている。みんな英語なので,僕は行きのバスで教えてもらったベトナム語でさよならと言った。すると,彼は一瞬いやな顔をしたが,すぐにベトナム語で返してくれた。僕は敬意を払ったつもりだったけれど,何かの感情が一瞬トンさんの胸によぎったのだろうか。でも旅行者の僕は詮索しない。
あたりは既に暗い。
よろめく僕を気遣って,Nさんはミネラルウォーターなどの買い出しに行き,Mちゃんは僕に付き添ってホテルに連れていってくれた。こんなときにこそ心の底が優しい人間かどうかわかる。感謝。
Mちゃんが肩を貸そうか,と言ってくれるのに,恥ずかしいからやめとくよ,とか言いながらホテルに着き,トイレに駆け込むと腹の中のものを全部絞り尽くすような下痢だ。痛みはおさまらず,水をがぶ飲みしながらベッドにうずくまる。
苦しみながら,はっと思いついたことがある。
あいつだ,あの上海女だ。そうだ。
イスでくつろいでる二人にベッドの中から宣言する。
「あのあやしい上海女は,魔女だったんだ。絶対。メコンの魔女の祟りだ。俺が一緒に写真を撮らなかったから,あのとき魔法をかけられたんだ。くそー。腹痛てー。」
絶大な賛同を得られるかと思ったが,二人の反応は,口々に,
「くだらんこと言ってないで。」
「早よ寝なさい。」
ユーモアというのは苦しいときにこそ必要なのだ。分かってないね。
とぶつぶつ言いながらも,僕はつらい夜になりそうな予感がしていた。