初めてスポーツタイプの自転車を買ってもらったのは小学校高学年の晩夏だった。
 アルミフレームドロップハンドル26インチ10段変速の赤い車体が夜に届けられ、それが玄関の白熱灯の下で静かに光っているのを見たときには、本当にこれがボクのものになるのかと、ドキドキしていた。
 うれしくてその夜はほとんど眠れず、待ち切れないで早朝の薄明かりの中へ飛び出した。車のいない朝靄のかかった車道を必要以上にギアをガチャガチャと変えながら、胸を膨らませて走ったときの頬にあたる冷たい風。
 その風の感触を一昨年のある日鮮明に思いだした。
 それでドロップハンドルの自転車を買おうと思ったが、折しもマウンテンバイクとお洒落なシティサイクル(いわゆるオバチャリ)の大ブームであり、丸石、ブリジストンなど一世を風靡したドロップハンドル車は安売り店からすっかり駆逐されていた。専門店(いわゆる自転車屋)を覗くと、あることはあったがプロ用もしくはマニア用の一台10万円以上もするもので、とてもじゃないが手が出ない。
 そこで止むなく新聞折り込みのチラシを比較検討した上、一番安かった1万数千円のオバチャリを購入した。
 まっ赤な車体だ。
 これを「赤い疑惑号」と名付け、主要通勤交通手段としてフルに活用した。
 道路の凹凸を感じながら夏の朝を疾走すると、風はやはり心地良かった。
 晴れた休日にはサイクリングロードを端から端まで往復した。
 去年は後ろのカゴにに載っけていた我が子が、今年の春に補助車なしで自転車に乗れるようになったので、(生まれて初めて乗れたときの感覚を覚えているか!)数週間の練習の後サイクリングロードに連れだした。
 最初はおっかなびっくり走っていたが、次第に自信を持ち、ついには得意の絶頂となってハイな状態で坂道を下りおりて行ったその時、ハンドルを右左と大きく振ると、子供の体は前方舗装路面に投げ出され、自転車は2転3転して路側に落ちた。
 静寂が訪れ、路傍の西洋タンポポが春風で一揺れした。
 転倒直前、スピードに酔いしれた坊主はケタケタと笑っていたはずだ。とても愛おしい思い出だ。
 この夏のある日、帰宅途中にプランタンデパートをひやかしていると、自転車売場の片隅にひっそりと置かれているドロップハンドル車が目に留まった。
 例によって、マニア車だろうと値札を見るとやはり12万と買いてある。
 がっかりして他の売場をぶらぶらしていたが、何かひっかるものを感じる。あれはマニア車にしてはどこかスマートさに欠けるような気がする。むしろ懐かしさを感じたのではなかったか。
 そこで、もう一度戻って値札を良く見ると何と12,800円とあるではないか。先入観念が0を一個多く読ませたらしい。
 びっくりして改めて眺めると、18段変速で、シンプルながら基本的な機能はしっかりしているように見えた。
 それにしても安い。子供用の自転車でももっと値がはるはずだ。
 なぜ今時こんな自転車がたった1台売られているのか不思議だ。どこかの業者の倉庫の隅に忘れ去られていたのを処分するということなのでもあろうか。
 だれかにこの安さだけに目をつけられて買われては自転車がかわいそう、と勝手な理屈を付けつつその場で購入した。
 安いだけあってオバチャリ並みに重いスチールフレームの黒い車体に、今度は「黒い羊号」と命名した。
 少年時代に比べ2倍以上の体重となった今では軽快に疾走するという訳にはいかなかったが、通勤時間は1割ほど短縮した。
 トップギアでは自動車と競走できるような気がしたし、ギアを最低まで落すとどんな急坂でもグイグイ登れると思った。
 そんな話をススキノでしているうち、盛り上がった勢いで支笏湖行きを宣言してしまった。
 やめとけやめとけ、年を考えろ、自転車がこわれる、などとという極めて失礼な意見が飛び交う中で、年若い友人が同行を申しでてくれた。彼は自転車による北海道一周の経験があり、支笏湖への道程を制覇できれば北海道を制したも同然という。
 それだけきついということかと不安になり、決行予定日の10日前に当る秋分の日、小手調べにサイクリングロードを豊平川まで出て、川沿いに真駒内まで上り、滝野を回って帰ってくるという全行程50kmのコースを走ってみた。
 滝野のすずらん公園に至る上りはけっこうきつかったが、頂上近くの雑貨屋でコーヒー牛乳を飲みながらひと休みしただけで何とか乗り切った。
 あとは延々と下り坂が続き、初秋の日差しを浴びて走りながら満足感に自然と頬がゆるんだ。
 これで気持ちの準備が出来た。
 ところが、同行するはずだった若者から電話があり、女の子とのテニスの予定が入ったので行けなくなったという。この軟弱者と思ったが、彼は独身者のこと故、両イヴェントの重要度を勘案してかような結論を下したことも致し方あるまいと、許した。
 さてどうしよう。一人で行くのもどうかと思うが、日一日と秋が深まり肌寒くなっていくし、来年まで延ばして果してこの勢いが持続するか分からない。やろうと思ったときにやろう。さあ準備は出来た。明日は朝5時に出発しよう。
 1992年10月4日、予定より3時間以上寝坊した私は午前8時15分新札幌の自宅を出発した。初秋の薄日が差すさわやかな朝だ。まずコンビニでおにぎりとウーロン茶を買い、丁寧に海苔を巻いた。これを片手で食べ食べサイクリングロードをひた走る。通勤通学の人たちが思ったよりもたくさん歩いている。
 ある程度走ったあと国道36号線に出て、羊が丘経由で真駒内に抜ける心づもりだ。
 ところが、36号に出る途中で道に迷ったらしい。北野の込み入った住宅地に紛れ込み、急登坂急降下を何度も繰り返したあげく、泣きそうになってたどりついたのが清田の西友の前。そこまでに1時間近く時間を費やしてしまった。まっすぐ来れば20分ですむところだ。
 結局支笏湖サイクリングロード入口近くの芸術の森に着いたのは10時15分。家を出てから2時間が経過し、太陽は高く、私は肩で息をしていた。
 ここでやめて帰るという手もあるな、と考えたが、社会的信用とか軽蔑とか言う言葉が頭をかすめ、考えるだけにしておいた。
 覚悟を決めて漕ぎだし、ついに私は支笏洞爺国立公園の山懐深く分け行っていったのである。
 最初の長い坂を登りきったところでいきなりダウン。寝そべってはあはあ言っている横を、高校生健康優良男女グループ交際風がこんにちわーと明るく挨拶しながら軽々と通り過ぎて行く。
 くっそー女の子にまで、と思ったが、女の子が皆年期の入ったドロップハンドル車をもってるのは不自然だし、シュラフも積んでたところをみると、素人じゃあるまい。道内一周を試みるどこかの短大サイクリング部と見た。セミプロだよ。セミプロ。と納得して、また漕ぎだした。
 体型、実績からいって、明らかに持久力型ではない私にとって、それからの道程は一言で要約すると、「苦行」であった。その苦しいときに限って真夏のような太陽が天頂から照りつけていた。
 一つの坂を一気に登りきることはできないかわりに、ちょっと休めばすぐに回復するという我足の性能を発見して、ちょっと登ってはちょっと休憩するという尺取虫作戦を採ったり、気力が萎えないように「取敢えずあそこの樹のところまで進もう」と自らを奮い起たせ、これを、馬と人参理論と名付けたり。
 とにかく心も体も騙しだまし進んだ。
 競輪選手風のがシャーッと追い抜いていく。
 見るからに体育会系力任せ集団がちわーっすと挨拶していく。
 一人暮らしまじめOL風が黙々と坂を登っていく。
 こちらも畜生とかエンヤコラとかコナクソとかンの野郎とか声に出しながら距離を少しずつ稼いでいった。
 ようやく頂上まで来たと思ったら、さらに上り坂が見えてきたり、次の上り坂を視界に入れつつ延々と下っていくときの悔しさ憤りは体験者のみが語れるであろう。
 仕舞には無我の境地となって文字どおりトリップ状態で漕いでいると、通りすがりの自動車の窓からどこかのおばさんが手を振ってくれたので、ぼんやりと頭を下げて返礼した。するとその車が先の方で停まり、中からそのおばさんが出てきた。よく見ると、それはうちの妻子であった。
 友人母子と私をひやかしついでに支笏湖で子供たちを遊ばせに来たととのことで、ボート乗り場で待っていると言い残し、去っていった。
 くっそー。せっかく家庭生活から逃れて男の浪漫を求めに旅立ったのに、何てえ奴等だ。と罵りつつ人間原動機に戻ってひたすら漕ぎつづけた。
 しばらく行くと外輪山を越えた手応えがあり、下り坂が長く続いたあと、唐突に支笏湖が眼前一杯に飛び込んできた。
 嬉しくてちょっと目が潤んでしまったことを白状しよう。
 やったーっ!
 後は湖面を渡ってくる風を全身に感じながら湖畔の平坦な道を数キロ快調に飛ばし、13時30分に温泉街に到着した。
 予定では湖畔を眺めてて哲学的思索の人となるはずだったが、否応もなく家庭サービスの人とさせられ、14時15分に帰路の人となった。
 帰りは千歳へ出て36号をたどってきたが、次第に日が暮れ雲行きも怪しくなって気温が下がり、シャム猫の死骸なども見たりして心細い気持ちでひたすら漕いだ。
 意外に坂が多くて2度ばかりダウンし、札幌に入ってから今度は里塚の住宅街で道に迷ったりしたが、ほとんど自棄になって走りつづけた。
 17時30分ついに全行程120キロを走破し、身も心もぼろぼろになって自宅にたどり着いた。辺りは既に真っ暗だった。
 すぐにシャワーを浴びて、夕飯をかきこみ、前から約束していた東豊線新道東駅近くに住む友人宅での宴会に繰り出した。
 到着第一声で「支笏湖までチャリンコで行ってきたぞー」とみんなの度肝を抜き、手柄顔で自慢しつつへべれけに酔った。
 深夜タクシーで帰宅したところで全ての気力体力は燃えつき、枕の闇の奥深く沈み込んでいったのである。