8月24日(土)
電動のカーテンがゆっくりと開いていく。朝の光に乗って,既に眠りから覚めたバンコクが飛び込んでくる。チャオプラヤ川には幾筋もの航跡が錯綜している。
朝食はここもバイキング形式だ。シンとした食堂で金持ちそうな夫婦や家族連れが取り澄ましてナイフを動かしている。何だか緊張する。
今までメモ代わりに食事の写真を撮ってきたが,ここはそれも憚られるような雰囲気だ。やっぱりこのホテル,僕らには高級すぎたか。
ボートツアーは9時出発なので,30分前にサパーンタクシン駅へ行ってみる。
船着き場にはそれらしい表示がないので駅舎に入って聞いてみると,改札機を通った中に旅行センターがあった。話は通っていてちゃんと名簿に載っている。案ずるより産むが安し。780Bのチケットを買う。出発までそこらで待てと言う。
部屋の外に出,道路を見下ろしながらこっそりタバコ吸う。もちろんここは禁煙だ。マナーは守ると言っておきながらごめんなさい。だってここは改札の中で外に出られないし,耐えられなかったんだもん。人間は弱いもの。それで良しと鬼平も言って・・いないかな。案の定,コツコツと歩いてきた女性職員に注意される。でも「悪い子ね」という感じで,にこにこしている。母親にしかられた子供のように僕らはしょげて旅行センターに戻る。
時間が来たようだ。しかし予約者が一組来てないらしくしばらく待たされる。不満の声も上がったので諦めて出発となった。
乗り場に向かって引率される。その時髭の東洋系オヤジの一家が走ってきた。悪びれる様子もなく一行に加わる。
船着き場からツアー専用のボートに乗り込んだ一行は,アラブ系新婚旅行風カップル,中国系成金風ハゲオヤジとインド系若奥さん,遅刻髭男と奥さん子供二人,おとなしい東洋系一家,そして怪しい中年コンビの我々。ガイドはまるまると太った元気のいいおばちゃんだ。
気温はぐんぐん上昇しており,既に汗だくの我々に最初冷たいおしぼりが出る。はー,生き返る。
ガイドのおばちゃんは流ちょうな分かりやすい英語で,川岸の建物を説明していく。
メンバーから盛んに質問が出る。この辺は日本人とは違うところだ。みんな英語は自由に話せるようだ。僕も言っていることは9割以上分かるが,こちらからは気軽に話しかける勇気が出ない。そんなこともあって,一番後ろの席に僕らは陣取っている。帰ったら英会話教室に通おうと決意する。

まず暁の寺ワットアルンに停泊する。30分の自由行動。タイルや黄金で華麗に装飾された仏塔群に圧倒される。逆にミャンマーのパゴダの素朴さを懐かしむ自分がいる。
そういえばタイルを割って貼り付ける手法を盛んに使うアントニオ・ガウディはここのことを知っていたのだろうか。
アラブ系の若者はソニー製のビデオカメラで奥さんを取りまくっている。
犬が日陰でぐったり動かない。





続いて,ロイヤルバージ博物館へ。
ロイヤルバージとは王様の行列に使う船で幅約3メートル長さは50メートル近くあり,お祝い事があると50艘ぐらいの船団が長さ数キロにわたって連なる華麗な行列が行われるとか。
ここには数艘が保管展示されている。見事な装飾が施された豪華な船だ。行列の華々しさが想像できる。
ここでの写真撮影は有料で100バーツを入り口で取られる。ビデオはもっと高い。みんな払わなかったが,アラブ君は迷った末カメラ撮影料を払った。しかし船以外はパネルが中心で写真を撮るような物はなく,失敗したねとみんなにからかわれている。
ボートに戻ると冷えたミネラルウォーターが供される。ありがたい。

次はワットプラケオと王宮だ。
日傘を渡され,ボートを下りてから10分ほど歩く。
観光客や参拝客目当ての店がずらりと軒を連ねている。バケツの中に洗剤や食器などの生活用品や果物を詰め込んだものが売られている。お坊さんへの供物だ。ガイドのおばちゃんが礼拝用のグッズを買っている。
圧迫感を感じるほどの日差しの強さだ。
ワットプラケオは王家の菩提寺であり王宮と共に厳重な柵で囲まれている。入口ではさすがに衛兵が厳しくチェックしている。
まずワットプラケオを見学する。ここはご本尊が緑色に輝く翡翠の仏像であることから別名エメラルド寺と呼ばれている。
本堂の内部は撮影禁止となっていて写真では伝えられないが,薄暗い堂内は壁と天井が一面細密な壁画で覆われ,大勢の人が見上げる高い位置で,小さなエメラルド色の仏像が静かに座している。華麗で厳粛な空間だ。
仏塔は様々な様式で華美を競い,本物以上に美しいと言われるアンコールワットの小さなレプリカも見事だ。










ガイドのおばさんは民話を題材にした回廊の壁画を一つ一つ説明して歩く。
また,バンコクの正式名称を一息で言って拍手を浴びる。
何故かというと,バンコクというのは国際通称で、正式名称は
クルンテープマハナコーンアモーンラッタナコーシン・マヒンタラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッタナラーチャタニーブリーロム・ウドンラーチャニウェットマハーサターン・アモーンラピーンアワターンサティット・サッカタットティヤウィサヌカムプラシット
と言うのだ。
地元の人は略してクルンテープと言っている。
次に先ほど買い求めたグッヅでお参りの仕方を説明する。
蓮の花は丁寧に織り込んでみせる。金箔を仏像に張るときは自分の体の悪いところに貼るという。頭が悪ければ頭に,恋煩いならば胸に,と笑わせる。僕らも金箔をもらって貼ろうとしたが,本物の金箔ではないのでなかなか付着せず,風でどこかに飛んでいった。だから僕の頭は悪いままだし,Nさんの心も汚れたままだ。
ガイドさんによれば,金箔を貼って祈願し,願いが叶ったら,もう一度その仏様にちゃんとお礼しなくてはならないと言う。そうしなければ前より2倍も酷くなって返って来るとか。
この話をNさんに通訳してあげる。そう,彼はミャンマーのバガンで金箔を貼って何事かお願いしていたのだ。
「またミャンマーに行かなならん,てことやないですか」
何だか嬉しそうだ。




王宮に移動して写真を撮っていると。衛兵が一糸乱れぬ歩調で遠くに見える離宮のような建物へと急いでいった。そちらを見ると玄関にロールスロイスかなにかの豪華な車が止めてある。
ガイドさんによると王女様のお出かけではないかとのこと。このシオリントン王女は50過ぎで独身,次の王位継承者らしい。王家のゴシップについてしばしNさんから講義を受ける。
これで全行程の終了だ。予定より30分遅れているが,誰もせかしたりしない。

ボートに戻ると,冷たいミネラルウォータ,おしぼりとサンドイッチやお菓子などが入ったランチボックスが待っていた。
ガイドさんは「毎日毎日同じ所に行くけれど,お客さんと話すのが楽しいから」と挨拶する。
到着すると一斉に拍手が湧き,みんなにこにこして下船した。客は盛んに質問し,ガイドさんも友達のように冗談を言ったりする。みんなで楽しもうとする姿。こういったツアーの楽しみ方も勉強し,いいツアーだった。
ホテルに戻るともう昼過ぎだ。
Nさんはシェスタを決め込んでベッドに潜り,ぼくはデスクで旅のメモを書く。静かで贅沢な午後が流れる。
3時頃になってホテルを出る。Nさんが街案内をしてくれるという。
ホテルの連絡ボートの行き先の一つである対岸のリバーシティーショッピングセンターに行く。
ここに並んでいたワゴンショップで,チーク材の小さなボートに色とりどりのお香が乗せてあるお土産を買う。あまり値引きできなかった。店番のばあさんの満面の笑みがちょっと引っかかる。
Nさんは部屋に飾る絵を物色している。木の板に仏像を書いたオブジェが気に入ったようだが,付け値の900Bから一歩もまからない。Nさんに流れるアキンドの血がそれを容認するわけもなく,断念したようだ。
BTSサファンタクシン駅まで歩き,サイアム駅で降りる。サイアムとはシャムのことだ,とNさんは手柄顔に語る。
ここに来たのはワールドトレードセンターという高級店が目的だ。そこでNさんはとある女性に頼まれてきたものを買いたいと言う。
それはシャネルの油取り紙。日本には売っていないとか。ロゴ入りのオシャレなケ−スに入ったそれは1500Bだった。1枚あたりにすると約20円になる。
Nさんは憤っている。
「鼻の脂なんてティッシュでぐっと絞ったらええやんか」
って女性はそうはいかないでしょう。
続いて,手軽にタイ料理が楽しめるクーポン食堂に行く。そこは入口でクーポンを買い,食堂内に並んでいる店で好きなものを注文するという仕組みだ。このクーポンは余ったら払い戻してくれる。現金を一ヶ所で管理するためだろう。
ソムタム,トムヤムクン,バミーナムをそれぞれの店から持ってきて空いてるテーブルに並べる。
Nさんがコーラを買ってくると席を立ったので,僕はこっそりつまみ食いする。遠くに鋭い視線を感じた。Nさんが目を吊り上げてこちらを睨んでいる。おっかない。
全部で135B。
青いパパイヤのサラダ,ソムタムはさっぽりして美味しい。トランアンユンの映画を思い出す。どんぶり一杯のトムヤムクンも高級店で食べるようないかにもエスニックでございという気取った味ではなく,具材や香辛料が混然一体となって滋養がしみじみ胃に染みこむ感じだ。



デューティーフリーショップをちょっと覗いた後,カフェで一休みする。
ギターの弾き語りライブをやっている。いかついゴリラ顔のあんちゃんなのに,とても甘い声でラブソングを歌う。なるべく顔を見ないようにしながら1時間ほどビールを飲んで過ごす。


夕食はそごうデパートの地下の「とおりゃんせ」という日本食レストラン。
Nさんはお好み焼き定食を頼む。すっかり里心がついたのか,この関西人以外には理解不可能な炭水化物オンリーの取り合わせを,うまそうに食べている。
お互い中年どうし,ビタミン剤では補えない旅の疲れがたまってきている。
そごうの交差点角には,ヒンドゥー教の神ブラフマー(梵天)と民間信仰のピー神を奉った祠がある。すごい人だかりだ。ステージがあり,そこで民族衣装を着た女たちが,怪しく手を揺らめかせながら回っている。
そごうの建物を建設中に事故で死者が続けて出たが、ここに祠を祭ってからパッタリと止まったため、願い事が良くかなうとしてバンコク一の人気となったらしい。運転中のドライバーも、この前ではお祈りしている,とNさん。


タイシルクで有名なジムトンプソンの本店にタクシーで行ってみる。
Nさんがバッグを買いたいという。今回はなぜか女物を中心に買っている。安心しな。プライバシーには立ち入らないよ。
2つのバッグで迷ったNさんは,近くにいた日本人らしきおばさんに「どっちがいいと思いますか」と突然聞いた。おばさんはビックリして無言で後ずさる。僕も他人のふりをしてその場から逃げる。
ここからバッポン界隈まで歩くことにした。途中のスーパーマーケットで土産用の飴などを買う。
バッポンは昨夜と同様蛍光灯がぎらぎら輝き,呼び込みやその間を歩く大勢の人々が混然とごった返している。
怪しい店がわざと外から見えるようにドアを開けて,おにいさんおにいさんと手招きする。横目で覗くとピンクのライトの中で白い物が蠢いている。CDDVDと独特の口調で囁くおっさん。視線を感じてフト見ると薄汚れた象と目が合い腰を抜かす。乗らないか,とこれも商売。
Nさんがマンゴーの木で出来た大きなツボに目をとめる。これを持って帰るのは大変だが,部屋に置いておけばすばらしいインテリアになりそうだ。聞くと2500Bだという。値引き交渉を繰り返すうち1800Bになった。ただし僕らの持ち金を合わせてもバーツが足りない。店主の兄ちゃんはドルを両替してきてやると言う。別のツボも次々出して見せる。迷うNさん。店主は道路に置いてあるブリキの箱を開けてさらに商品を探している。
「やっぱり止めますわ」
大商いの予感に舞い上がる店主を置き去りにして歩き出すNさん。
やがて露店も少なくなり,事務所や小ホテルの並ぶ地区に出る。中国人街だという。
中華料理屋の緑がかった蛍光灯が暗い歩道を照らしている。漢字名のホテルでは従業員が何か話し込んでいる。僕らはチョノンズィー駅からBTSに乗り込んでホテルに戻る。
最後の夜なので,ホテルのバーで乾杯しようと誘ったが,Nさんも疲れており,部屋で過ごすことにした。
大量に置かれている新聞に目を通す。スズキのトラックカーが人気ナンバーワンであること,高層ビルで垂直マラソン大会が近々行われること,財務関係の求職が多いこと,タイで就職するには最低限英語が話せることが条件であること,タイへの移住案内が盛んなこと,などが分かった。
最後のスカッチを飲み干して振り返ると,大都会バンコクの夜景はまだまだ意味ありげに明滅している。