1時間半ほどでもうバンコクのドンムアン空港だ。
 地元に帰ったように生きいきと歩くNさんの誘導で空港ロビーを出ると,目の前は高速道路の高架が迫り,排気ガスと車の騒音を乗せた熱風が一気に押し寄せてきた。
 バンコクは予想を超える大都会だ。
 僕はミャンマーからポッと出てきた田舎ものになったような気後れを感じて,子羊のようにNさんの後について行く。

 空港タクシーはチケット制になっており,売り場で購入後乗り込む。
 Nさんはエアコン付かどうか何度も確かめる。何だか常に鼻歌を歌っているような調子のいい運ちゃんだ。冷房を入れない運ちゃんに向かって「エアコン」ときつく繰り返すNさん。運ちゃんは分かってるよとばかり窓を閉めてスイッチを入れる。
 ペニンシュラホテルまでと言うと,「知ってる知ってる,それで2つあるうちのどっち?」という。え,ペニンシュラって1つしかないはず。運ちゃんはおもむろに地図を出す。Nさんが指示すると,「あ,ここね,知ってるさ」とあくまで調子がいい。
 ペニンシュラホテルは世界屈指の高級ホテルで,何度も世界一のホテルという賞を獲得しているほどだ。シーズンオフの割引料金でさえ一泊150$以上する。今回の旅の楽しみの一つでもある。
 場所は中心街からはずれたしかも川向こうにあるため,交通の便は悪いが,ホテル専用のボートで対岸と結んでいるのだ。

 ホテルに着いた。
 フロントはいかにも気取った感じでシンとしている。短パンにサンダルというNさんの格好を気にしながらチェックインをしようとすると,すぐに日本人女性スタッフが呼ばれた。
 彼女も見るからに優秀な感じで,部屋に案内されるときにNさんが話しかけても,上品にそつなく受け答えし,態度を崩さない。その彼女にもNさんはチップを上げようとして丁重に断られている。

 部屋は貧乏人の僕らの度肝を抜くものだった。
 すっげーといながら一通りチェックしては,写真を撮ったりベッドに身を投げたりする。
 まずドアを開けると左手がバストイレなどのユーティリティ,この中には,壁にはめ込み式のTVがあるバスタブ,それとは別にシャワールーム,洗面台が2セット,電話付のトイレルームがある。右手がクローゼットや化粧台,金庫などがあるクロークルーム。部屋に入る前のこのスペースだけで日本のビジネスホテル位の広さがある。
 部屋にはソファー,机,ベッドが広々と配置されている。壁の絵はもちろん全て直筆サインが入っている。ベッドサイドの集中コントローラをいじってみようとして手を近づけると,触れてもいないのにランプがついて驚く。窓際の高級チーク材の机に座り,机上のコントローラを触ると,窓のカーテンが電動で開閉する。
 窓からは眼下の川を行き来するボートや対岸の街並み,遠くの摩天楼が一望できる。
 まるで自分の部屋のように快適だわ,とNさんに宣言すると,無理せんでええから,とすげない答え。

ユーティリティクロークルームNさんの立つ左右がユーティリティースペースとクロ−クルーム応接セットベッド机と電動カーテン

 荷物を解いて一段落し,早速街に出ることにした。バンコクはNさんのフィールド故,僕は全てお任せモードだ。事前情報も何もなしで来た。
 ホテル専用ボートは20人乗りぐらいの小ぎれいなもので,屋根のペニンシュラのロゴも誇らしい。これが約10分間隔で対岸の駅やショッピングセンターと結んでいる。

窓の眺め 眼下に船着き場専用ボート頻繁に行き来している船内川風粋なキャプテン

 僕らはホテルの船着き場からヒョイとボートに飛び乗り,チャオプラヤ川を渡ってBTS駅へ向かう。
 BTSとはバンコク市街を高架で結ぶ鉄道で,渋滞と排気ガスで悪名高かったバンコクの交通事情を一変させたものだ。
 船着き場からすぐの所にあるサパーンタクシン駅でオランダシーメンス社製のオシャレな車両に乗り込む。車内広告を見てもデザインのセンスが高く,タイ人の美意識の高さが窺える。

BTSのチケットホーム来た

 まずナショナルスタジアム駅で降り巨大なショッピングセンターに入る。ものすごい人混みだ。吹き抜けの壁には巨大な王女の写真が飾られている。ここは王国なのだった。
 腹ごしらえにNさん御用達という「八ちゃんラーメン」に入る。唐揚げ付き八ちゃんラーメン。んーん,本当のラーメンだ。久々の日本の味。
 何でも今バンコクでは日本食ブームとかで,至る所に日本食レストランがあるそうだ。
 ところで,この店はno smokingだ。こちらでは公共の場所での喫煙が禁止されていて,日本以上に徹底しているそうだ。食後の至福の一服が楽しめないのはジンセイをつまらなくする。このショッピングセンター内にも喫煙コーナーはなく,一旦外に出なくてはならない。

寿司コーナー王女の写真吹き抜け八ちゃんラーメン

 オープンカフェで煙草を吸いながら,聞きしにまさる大渋滞を眺める。
 ところで,先ほどから白いブラウスに濃紺のタイトのミニスカート姿の女の子達が気になってしょうがない。どこかのOLかと最初思った。でも昼休みは過ぎているし,一緒にいる男の子達がなんだかガキっぽい。そうか,多分学校の制服だ。ちょっと大人っぽ過ぎるンじゃないの。世界で一番色っぽい制服はベトナムの白いアオザイだと言われている。2番目が日本のセーラー服とは某アメリカ人の言。Nさんと僕は,これにタイのタイトスカートも入れて,世界三大色っぽい制服に認定した。

 先ほど駅の構内でボートツアーのポスターを見つけた。BTSが主催するもので,今年から始まったらしい。
 普通市内観光はバスだが,始終渋滞につかまるので移動で疲れてしまうと聞く。川を移動すれば,効率よく市内の観光スポットを回れる。明日これに参加することにした。
 Nさんに命令され,ポスターに書いてあった番号に電話する。周りがうるさい上に電話が遠く,しかも早口でまくし立ててくるので,半分ぐらいしか言っていることが分からない。何とか予約を済ませると,何か駅の名前を言っているようだが,駅名なんて全然分からないから分かりましたと電話を切った。
 後ろで監視していたNさんに報告すると,「結局,明日どこへ行けばいいんや。チケットはどこで買うんや」と叱責される。
「まあ,ホテルの前の駅が出発だから,明日駅に行けば分かるよ。マイペンライ」
早速覚えたマイペンライ,何とかなるさ,というタイ語を連発して攻撃をかわす。

トゥクトゥク焼鳥屋品定め中我が町

 次はサラディーン駅に降りる。ここはバンコクの繁華街バッポンに近い。早速怪しい客引きに声をかけられる。
「昼の風景をよく見といてや,夜はがらっと変わるから」とNさん。
 僕らはタイ式マッサージに行くのだ。
 勝手知ったる風情で裏道をすいすい入っていくNさんについていくと「有馬温泉」という店がある。
 
 2時間コースを頼むと2階に案内される。マットが並び,一つ一つカーテンで仕切れるようになっている。ガウンに着替えて待つ。すぐにマッサージ師の女性がやってきた。
 僕はマッサージは初体験だ。日本でも一度も経験がない。
 まず頭から始まり,両手,背中,足と丁寧に時間をかけてもみほぐしていく。タイ式はスジを探って伸ばしていく感じ。かなり痛いが気持ちはいい。教えてもらったサヴァーイ(気持ちいい)を連発する。
 僕の方に付いたのは,ずんぐりむっくりで無口な力持ちの若い女性だ。きっと田舎から出稼ぎに来ているのだろう。あまり上手とは言えないが,それでも途中でちょっと眠ってしまった。
 Nさんの方はベテランらしく,日本語も少し話せるのでNさんは盛んにタイ語の勉強をしている。氷はナムケン,ナムは氷,ケンは固い。固い水か,なるほど。彼女はラオス国境当たりの出身で,やはり出稼ぎで来ているらしい。

 客は僕らの他にいなかったが,途中で日本人が入ってきた。
 カーテン越しに聞こえる会話では,おばさんとそれを案内する男だ。男の方は先生と呼ばれタイ語も堪能なようだ。何だか怪しい。金持ちの奥さんと若い助教授の不倫行と僕は決めつける。

 身体をひねったりしてスジを伸ばす行程になると,身体の固いNさんは怪鳥のような叫びを盛んにあげて痛がる。
 仰向けになって膝に乗せられ,手を伸ばせと言われたとき,僕は横に置いてあったミネラルウォータのコップを倒してしまい,マットが水浸しになった。それですっかり目が覚める。
 先ほどNさんの方の彼女が僕の腕をもみもみしたので,後で聞いてみると,「彼は全然凝っていない」と言っていたそうだ。僕はあまり肩や身体が凝らないので,正直いうとマッサージの効果はあまりなく,もう十分だなと思った。でもまだ随分時間は残っている。せいぜい気持ちのいい振りをしてあげるか。

 全行程が終了し,330バーツと水20Bを払う。2時間でこれは安いね。チップは直接手渡すことになっており,50Bを渡すと,胸で手を合わせてにっこり微笑むタイ式のお礼を返される。

 外は既に暗くなっている。道一杯に露天の店が連なり,昼間と同じ通りとは思えない。
 有名なパッポン通りを歩く。人混みをかき分けなければ進めないほどだ。客引きが絶えず声をかけ袖を引いてくる。
 Nさんのお薦めで竹製のランチョンマットと箸のセットを買う。Nさんの値引き交渉は勉強になる。関西人の面目躍如だ。

バッポン通りすごい人の波タニヤ通り 日本語だらけ

 夕食を取ろうと何軒か探してみる。しかしみんな結構高いのでナショナルスタジアム駅にに戻ることにする。
 ショッピングセンター内の日本食レストランFujiは行列が出来るほどの盛況ぶりだ。一瞬ミャンマーのバガンにあったFuji食堂を思い出したが,比べようもないほどオシャレな店構えだ。竹林をモチーフにした内装となっており,小じゃれたカップルなどで店内は大にぎわいだ。
 トンカツ定食とビールを頼む。周りの地元民がこちらをちらちら見ている。日本人の食べ方を研究しているようだ。トンカツのコロモを剥いだりして混乱させてやろうかと思ったが,大人げないので止めた。

幕の内トンカツ定食おしゃれな店内

 ホテルのボートで夜風に当たりながら戻ったのは夜の11時過ぎだった。

帰りの船内夜のホテル船着き場

 デスクに座って窓を眺めるとバンコクの夜景が一面に広がっている。宙に浮いているような錯覚に陥る。
 感傷に浸っていると,Nさんが現実的な声で「ちょっとどいてや」と机を奪い,お金を広げて今回の旅の精算業務を始める。

窓の夜景 対岸のオリエンタルホテル真剣に金勘定

 終了後また机を奪い,旅のメモを書きながらスカッチを傾ける。
 Nさんがフロントに氷を頼む。早速覚えた「ナムケン」を使いタイ語で電話する。しかしいつまでたっても来ない。僕が今度は英語で頼むとすぐに持ってきた。
 Nさんがフカフカのベッドで幸せな寝息を立てている。眼下の船着き場ではホテルのボートが明かりを消して揺れている。
 僕はスカッチ片手にバンコクの夜空を飛びまわる。