新鮮な筋子オニギリは北海道の特権だ。
 朝日が眩しい車内で,Nさんは嬉々としてコメカミを動かしている。
 たしかに東京辺りのコンビニでさえ,高菜など辛気くさいオニギリが中心で,筋子はあまり見かけない。
 ぼくも熱つあつの缶緑茶でオニギリを流し込む。運転席の窓を開けると,気持ちのいい朝の風が寝ぼけた額を醒ましてくれる。

 もう,怒ったような快晴だ。
 幅の広い釧路の道を走り抜け,最後のドライブに,いざ漕ぎ出でぬ。

 襟裳を回っていくことに決め,海岸沿いをひた走る。
 平日のせいもあるだろうが,本当に車が少ない。というか,ぼくらの前後見渡す限り一台もいない。
 周りは牧場なのか荒れ地なのか良くわからない風景が繋がり,ところどころ牛がいたり馬がいて,目が合ったりする。
 左手では,広大無辺の太平洋が朝日でキラキラしている。

 大樹町にさしかかる。
 全国に衝撃を与えた食中毒事件の舞台となった雪印大樹工場があるところだ。
 最初に疑われた工場がある大阪と北海道。Nさんとぼく。
 この因縁により,工場の前で記念写真をとるのも一興だ。
 大樹町の市街は海岸道路から何キロか内陸に入ったところにある。
 ちょうどガソリンがなくなってきたので,補給がてら寄り道することにした。

 道々キョロキョロ探すが,どこに工場があるか分からない。
 そのうち,何だかぼくらのやろうとしていることは,傷口に塩を擦り込むような,非道なことに思えてきた。
 確かにあそこの社長や幹部の対応はひどいもので,お粗末の限りだったが,一生懸命働いてきた従業員の気持ちは大事にしなければ。
 中心街でガソリンを入れ,猛省しながら海岸へ戻る。

 太陽がゆっくりと天頂に近づき,海の色が濃くなる。
 ぼくらは襟裳にぐんぐん近づいていく。
 黄金を敷き詰めるのと同じぐらいの金がかかる難工事だったという「黄金道路」は,ぼくらだけのためにあるように,相変わらず行き交う車が見あたらない。
 気温も高く,車内を潮風が吹き抜ける。
 横でNさんのいびきが起伏し,輝く波のうねりとシンクロする。
 そういえばここはもう,道東ではないのだ。

  襟裳の春は何もない春です〜

 目を覚ましたとたんに、Nさんが体を揺すりながら繰り返し繰り返し歌う。
 襟裳岬に着いた。
 今は秋なので土産物屋からはにぎにぎしく演歌が流れ,観光客が散策している。

 ぼくは岬を挟んで反対側の様似まではキャンプで来たことがあるが,襟裳は初めてだ。
 襟裳慣れしたNさんの昔話を聞く。
 あるとき襟裳は霧が濃くて全てが白い闇の中だった。その晩,付近の民宿に泊まると,霧笛が一晩中鳴りやまず,一睡もできなかったそうだ。

 最近できた風の博物館に入ってみる。
 入場者ぼくらともう一組しかいない。
 風の揺らぎを音階にした文字通り風琴があると聞いていたので興味があった。しかし,エントランスからのアプローチにスピーカーで音を流しているだけだったので,ちょっとがっかりした。でも断続的に流れる音は心の深いところを休ませてくれるリズムだ。
 海に面してガラス張りになっており,岬に砕ける波頭が一望できる。
 展示には見るべきものはないが,外のカメラを操作してゴマフアザラシを観察できるものは,面白かった。岬先端の岩場の映像をじっと見ると,小さく動くものが見える。操作盤でズームしてみると,いたいた。数匹のアザラシがのんびり日光浴している。
 風速25m/sの風を体験できる部屋もある。
 受付のお姉さんに促され,体験してみる。
 部屋の壁に巨大送風機が据え付けられ,体を支えるパイプが並んでいる。
 轟音と共に風が吹きだし,次第に強くなってくる。
 25m/sの風は確かに侮れないものだった。
 髪の毛は逆立ち,眼鏡は飛びそうになり,大声で叫ぶとその声も吹っ飛んでいく。
 Nさんが部屋から離脱した,と思ったらガラス壁の外からカメラを構えている。引きつりながらピースし,今度は交替してNさんを撮る。
 ついでだから,マルチスクリーンによる映画も見る。
 襟裳の四季という地元紹介の映画で,ありがちなものだが,良くできていた。
 すっかり襟裳通になって,岬を後にする。

「ウニ丼食べたいなあ。」
 襟裳を出てすぐにNさんが言う。
 出発の日に道の駅で食べたウニ丼があまりにもカワイらしくてズッコケたのを,まだ根に持っているらしい。

 ぼくはウニがおいしいと思ったこと今までの人生で一度もない。
 かなり前,海辺でキャンプをしたとき,友人が潜って採ってきたウニを,その場で焼いて食わせてくれた。たとえ数個でも密漁になるのかも知れないが,殺人でさえ時効になるほど昔のことだ。
 この新鮮なウニがおいしくないと言うんだったら,ウニ嫌いと認めよう,とこのお節介な奴が差し出した。
 このときより晴れてぼくのウニ嫌いは天下に認知されたのだ。

 そのキャンプは今でも語りぐさになっている。
・ ウニを採ってた奴は海底を蹴るときにウニを踏んでしまい,深々ととげを刺した。
・ ぼくが出発の朝,不思議なことに無意識にとげ抜きを荷物に放り込んでいたため,無事ウニの棘が抜けた。何故キャンプにとげ抜きが必要とその朝思ったか未だに分からない。
・ 夜,強風でテントが飛びそうなのに気がついて,ぼくがひとりで必死に守り,朝,疲れ果てて外で寝ているのに,他の奴らはそんな苦労に気がつかず,テントの陰で死んだように横たわるぼくにも気がつかず,さっさと遊びに行きやがった。
・ ウニ採りの奴は,炎天下の浜辺に海パン一丁で昼寝し,バチが当たって帰りに熱中症気味の高熱で倒れたが,だいたい同じ症状だからと中山峠で風邪薬を買って飲ませだら嘘のように治った。
・ 免許取り立ての奴に練習のため運転させたら,そこ真ん中に寄ってと言えば,中央分離帯に突進するし,そこの裏道曲がってといえば,電柱の裏の歩道を器用にすり抜けるし,緊張しまくって頻繁に鼻の横をこするし,エライ目にあった。
 などなど,青春の一こまだ。

「でも襟裳ってウニが捕れるのかなあ。」
 と話していたら,「ウニ種苗センター」という看板が飛び込んできた。
 お,ということはウニに力はいってるジャン。遠来の友人のご要望だ。叶えてあげよう。

 しばらく走ると寿司屋が見つかった。
 暖簾をくぐり,通された小上がりには,主人の趣味か骨董品が所狭しと並んでいる。
 メニューを見るとウニ丼はない。女将さんにNさんが聞くと「出来ますよ。」とのこと。だが,3000円という値段に彼はビビっている。
「旅の思い出だし食べなよ。」
 ぼくが背中をポンと押すと,嬉しそうに注文する。
 ぼくはエビ天丼にする。

 ウニは確かに新鮮そうで,ミョウバンで発色した韓国産のウニとは明らかに色つやが違う。Nさんはもう涙を流さんばかりに掻き込んでいたが,半分ぐらいでふと箸が休みがちになった。何故かと問うと,
「酔った。」
そうだ。ウニの世界はよく分からない。
 ぼくのエビ天丼は,大きなエビ天が5匹も載っかっており,新鮮でとても美味しかった。
 それぞれ満足して車に戻る。

 あとは一路札幌へ。
 様似町を過ぎれば,ぼくの土地だ。未踏の地から帰還した安心感を柔らかい午後の陽射しが暖める。

 浦河にさしかかる。
 いずれ関西人に生きながら目を抜かれるのも知らず,馬たちが光の中でのんびり草をはんでいる。

 浦河の道の駅にはレ・コード館という博物館が併設されていた。
 アナログレコードのコレクションだが,浦河町との繋がりがよく分からない。
 ちょっと面白そうだったけれど,有料だし,お互いの顔に疲労の色を認め,パスした。
「実は,知床の民宿を出るとき,栄養ドリンクをこっそり飲みましたんや。」
「知ってたけど,気を使ってあえて触れなかったんだよ,ワトスン君。」
 やはり,元気に振る舞っても中年コンビだ。

 苫小牧まで行って高速道路で帰ることとした。
 相当手前から無料の高速区間があるとNさんの情報。完成間近の新設路線を正式運用まで無料で供用しているらしい。Nさんが今年の夏ギリシャ人を乗せてこの辺りを通ったときに,それに乗り損ねて,一般道を悔しい思いで走ったそうだ。
 Nさんのいうとおり,高速道路の無料区間に乗っかると,すぐ下の一般道をタラタラ走っている車を見下ろせる。復讐を果たしたNさんは気分が良さそうだ。

 苫小牧方面の空はいつの間にか真っ赤に染まり,工場群の巨大なシルエットが急速に膨れ上がって来る。
 街路灯に灯がともり,規則正しく流れていく。
 空では巨大な何かが沈みつつある。

 パーキングエリアの陰気な蛍光灯の下で,ぼくはかけ蕎麦をすすっている。
 隣で旨そうにラーメンの汁を飲み干すNさんとの弥次喜多道中も,ひとまず終わりだ。
 心の中でNさんに、ありがとう、と言う。君と一緒でこそ楽しかった。
 旅が終わる寂しさが胸をよぎる。
 道東で解き放った羊たちが,うなだれて我が心の牧舎に帰ってくる。

 人生とは長い夏休み。
 どんな旅もいつかは終わるのだ。
 残った日にちを数えるな。
 次の旅の空を見上げよう。

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