「愛しい5月よ、おまえはまたやって来た! 」



 「黄金色の収穫はとうに終わったそうだ。」
 初冬の暗い曇空を見上げ、漁師の一人がいった。
 暗緑色の入江は時折吹き付ける風が砂を運ぶほかは、波の砕け散る音がするだけだ。
 鋭角的な北の海を這って海鳥が飛び、思い出したようにきつい鳴き声を上げる。
 入江を囲んで常緑樹の山が迫っている。 その裏には古い街が、 さらに向こうには痩せた農地が広がるという。
 漁師達は焚き火を取り巻いて座り、<私>の長い旅を迎えた。
 彼らは言葉少なだった。が、唐突に潮に鞣された顔をむき出して笑い声を上げる。
 入江全体は北方表現主義の絵画を思わせるくすんだ色で統一されていた。
 それだけに、焚き火の中で焼かれている巨大な甲殻類の赤い甲羅が目に沁みる。いや、単に煙の所為だったかもしれない。
 旅の目的は忘れた。苛立ちを踏みつけながら歩くのが日課となってしまった。かの哲学者は旅の空で何を見出したのか。
 視野の右隅の彼方の岬に水晶のピアノが光る。
 風が強くなった。
 海が膨れあがる。
 鳥が舞い上がり、無数の魚が笑う。
 ティムパニの連打が耳を裂く。
 <私>は渾身の力を両指先に込めて、ピアノの最高音部 a mollの冷たく硬い主和音を叩きつける。
 水晶が数知れぬ破片に輝いて飛び散り、鍵盤はばらばらと海にこぼれる。



 街は霙だった。後期王朝風の街灯が石畳を濡らす。(嫌な街だ。)
 <私>はかなり酔っていたのかも知れない。いつものように神々を呪いながら、酒場から酒場へと逃げ続けた。逃げ続けた?何からだ。あの安宿からか?
 道行く者達は灰色のコートを寄せあい、ステッキの音と香水の香りを残して通り過ぎる。糸切歯をあらわにして談笑する女達。馬車の窓を開け大声で知人を呼ぶ男。子供達は喚声を引きずりながら笛吹き男の後を追う。今夜は聖リディア祭だという。通りを埋めるざわめきの翼が耳を覆う。その隙間から遠く打楽器の変則的なリズムと、微かな弦楽器の調べが聞こえる。
 <私>は道端に這いつくばって白いものを吐いた。
 立ち上がって石造り冷たい壁に頬をこすりつける。呪いの言葉を思い出せるだけ呟いて顔を上げると、女がいた。
 血の色をしたコートの左ポケットから左手の真っ白な5本の指を出し、寒色系の髪を梳き上げる。
 互いの目に気の遠くなる憎しみを認め合うと、<私達>は地下の込み合った酒場へ連れ立った。
 そこで香辛料(パプリカ)の効き過ぎたジャガイモ料理と、しおれたサラダを食べた。



 その日から毎日、口実を設けては女を連れ出した。女もいくつもの口実を用意してそれに応じた。
 無彩色の街を眺めて「市長夫人の密かな楽しみ」や「実直な銀行家の堕落」を語り続ける女の赤い唇は問いのない答だ。
 冬の午後は短い。長い棒を持って街中のガス灯を点す少年は、自らが夜のカーテンを引いていることに気がつかない。
 <私達>は太った女の経営する酒場でゆっくりと食事する。硬い椅子。床を踏み鳴らして踊る幾十の靴。赤いワインに浸された空間。天井でランプがゆらゆらする。カウンターに寄り添って店の女を口説く男。乾杯を叫ぶ者。笑う女。
 黒ずんだテーブルを挟んで、<私達>は互いの言葉と目を緑の蔦のように絡み合わせる。最後のグラスを乾すと、追われるように外へ出る。
 星はない。
 人通りの絶えた歩道を街の端まで歩くのだ。ある時は影を一つにして。時には狂ったように笑い続け。そして、たいていは罵り合いながら。
 街の外れに女の家がある。
 女の足の冷たさは磨かれた大理石を思わせた。
 <私達>の懺悔はいつも、噛みつくように互いの口を貪ることから始まる。



 長い冬は終わろうとしている。天球の全てを薄い柔らかい雲が包み込む。足を投げ出した<私>の腰の高さで麦の青い穂が揺れている。麦畑は<私達>を中心とする同心円を描いて広がる。遥かに遠くくすんだ町並みが見える。その背後に新緑の山が霞む。さらに向こうには、恐らくまだ冷たい海。かつて入江で焼かれた甲殻類の赤い甘い匂い。(<私>の旅。)理由のない懐かしさに胸苦しさを覚える。5月の風が麦畑を掃き巡る。雲雀の声が天頂に遠ざかる。女は正確に仰向けに眠っている。風が着衣の襞と額の髪を揺らす。愛も憎悪もそこからは見出せない。女神の白い彫像の完全さを思った。<私>は指に絡みつくナイフをゆっくりと女の豊かな胸に沈めた。女は何か言ったようだが麦のざわめきが口を塞いだ。<私>の中に膨れあがるものがあった。堪え切れぬ笑いがとめどなく溢れた。(<私>の旅!)



 その時女の口から<私>の知らぬ赤い花がこぼれ出た。
 <私>は驚いて笑いから覚め、開かれた口元を見つめる。
 次に鮮やかな黄色の名前の分からぬ花が3つ。
 <私>は恐怖に震える。
 慌てて花を拾い集める。
 しかし次々と女は花を吐き出す。
 <私>は走りまわって花を拾う。
 吐き出す花の量は次第に多くなる。
 今や噴水のように高く連続的に吹き上げられる花々。
 曇空一面に赤紫白黄青橙藍、の花々。
 柔らかい風。
 <私>は胸一杯に花を抱え、知らない国の叫び声を上げながら、一人の狂人として麦畑を駆け回る。
 花の洪水は大地を覆い尽くした。



 このようにして、この地方の遅い春が訪れるのである。