ご飯が好きだ。
 3度の飯よりも好きだ。
 うどんラーメン蕎麦パン等小麦粉系は確かに大変おいしいが、オプションというかバリエーションというか「たまにはいいかな」という感じ。
 ただし、コドモじみた習慣でお恥ずかしいけれど、事情が許せば必ず何かをご飯にかけて食べたい。

 列挙してみると、


・マーガリン
・マーガリン醤油かけ
・バター
・バター醤油かけ

 これは子供のころからの好物だった。厳密に言えば、温かいご飯にはマーガリンのみ、冷やごはんには醤油を垂らす、バターの香りはこの場合ちょっとウルサイため一等落ちる、となかなか微妙なのだ。
 さすがに基礎代謝量が落ちてきた昨今はカロリーを考えてほとんど口にしないが、家人の出かけた日曜の昼など、キッチンに座り込んで密かに楽しむことがある。

・生たまご
・味付海苔
・海苔醤油づけ
・納豆

これらは供給源が限られているため、その配分に熟練を要する。
 例えば玉子をご飯にかけると、どうしても白身部分が先にどろりと流れだす。従ってご飯中央に予め適当な径、深度の穴を穿っておいてこれを受け止め、黄身も味付け程度に注ぎ足す。これが1膳目。2膳目は残った黄身を浸透させて、違った味わいを楽しむ。これが理想的な配分である。一膳に全部ぶっかけるとご飯が液状化してしまうし、3膳だと玉子が足りない。
 でも玉子もコレステロールがどうのこうのと黒い噂があるし、最近はめったにやらない。海苔関係の場合、箸を器用に使って海苔巻き状態で食べるため消費量は多い。普通の海苔に醤油をつけて食べる場合なら枚数の融通がきくからいいけれど、味付海苔の場合は問題が複雑だ。というのも味付海苔は5、6枚の袋入りが一般的だが、私のペースでは一膳当たり1.5袋になってしまうのだ。だから2膳食べるときはいいが、1膳のときの一袋分食べ終わったときに決断を強いられるのだ。次の袋を破るべきか否か。たいていは破って、2、3枚で食べ終わり、残った海苔をぱりぱりと虚しく噛むこととなる。不幸にして1袋目で海苔が尽きた場合は、ガキの「Jリーグふりかけ」を奪い取るなどして残ったご飯を処理する。
 こうしてみると、きっと2膳メシが我が人生の平均値だったのだな。
 納豆も難しい問題を抱えている。
 配分という点では、超個人的な事情がある。
 ちょっと想像していただきたい。
 きれいに拭かれた大きな黒板がある。この黒板の端に爪を立てて反対の端までキーッと引っかく。あるいはガラスをクギで引っかく。この音が気持ちいいという人はあっちへ行っててほしい。その他にも各人二つ三つは鳥肌ものの音とか物とかをお持ちと思う。
 琴の若関はリンゴをかじる音が恐ろしいそうだ。梨ならいいとか。変なの。どうりでシャキッとしてないわけだ。
 私の場合「ご飯の中に数粒の納豆が散見される情景」が生理的恐怖だ。理由なんてない。万が一そうなったら最後、ご飯粒まで蛆か虫の卵に見えてくる。あな恐ろしや。不思議なことに人のを見ても何ともないが。従って納豆の密度を常に一定以上に保ちつつ食べることが絶対条件だ。しかし、これは習熟しているので無意識にできるから、どってことない。ついでに生理的な恐怖をいえば、濃い黄色と濃い緑の配色もいやだ。特に黄色がベースで緑がアクセントという組み合わせが最悪だ。これはハッキリとした原因がある。小学校の給食でニラ入り玉子焼きが出て、余りのまずさに下校途中で吐いた時からだ。おぞましいこと。さて、納豆の粒は出来るだけ大きいほうがいい。最近は小粒納豆が幅をきかせており、私自身一時期挽き割り納豆に走ったこともあるが、やはり豆本来の美味しさを味わえる大粒がいい。辛子や浅葱などの添加は気分次第であまりこだわらない。今の時期なら梅の香を加えてみるのがオツな食べ方かも知れぬ。納豆を語る場合欠かせないテーマとなるのが、そのかき混ぜ方である。
 ある人がベストとして挙げたのは、まずイキナリ一心不乱にかき混ぜ、全体が真っ白くクモの巣にかかった獲物もかくやあらんという風情になった段階で初めて醤油を垂らし、さらにしつこくかき混ぜるというものだった。きっとこの人は他人の個性や考え方を理解し尊重することなく、自分の考えを押しつけずには済まない人だろう、といったら言い過ぎだろうか。
 ははは、言い過ぎか。
 私はまず軽く醤油を垂らし、申し訳程度に2、3度かき混ぜてハイ終わり。あくまで各自の自主性に委ねつつ結局は意のままにするというスタイルだ。
 玉子を混ぜるときも同様だし、オジヤ系統の複数ぐちゃぐちゃかき混ぜ物もどうも嗜好に合わない。何か胃の内容物を食わされている気がするからだろう。牛じゃあるめえし何で人間様が反芻しなくちゃいけねえんだってなもんだい。
 ところで、大のオトナがこんなジンセイの枝葉末節のつまらないことを延々と書いていていいものだろうか。ジンカクを疑われないだろうかと不安になってきた。私とてこんなことを書きたいわけじゃなかったのだが。神は細部に宿る。また出典忘却の言葉が浮かんでは消えたが、そんな意味深の言葉もあるし、単なる筆の勢いということでお許し願うしかない。
 さてと、ここで長年の疑問を皆さんにぶつけてみよう。
 温泉ホテル(温泉マークホテルじゃないよ)などの朝食は、バイキング形式が増えたとはいえ、小さなホテルや旅館などでは一人ひとりお膳がつく。魚の切り身や香の物などどこでも定番のメニューであろう。
 で、このお膳の上をじっと見ていただきたい。きっと生卵と味付海苔が見えたと思う。あ、納豆もある。
 ここでいつも私の頭上10センチに大きな?マークが浮かぶのだ。
 素直に考えれば、生卵で2膳、味付海苔で1膳、納豆で2膳、あまつさえ香の物でも1膳はいける。合計6膳のご飯が食べれるじゃないか。一体どうしろというんだ。
 まず考えるのは全てを有機的に連携させる方法があるかということだ。納豆を生卵で溶き、香り付けに香の物を入れ、それをご飯にかけて味付海苔でくるみつつ食べる。これは試すのに勇気が要るな。
 それじゃご飯との連携を諦め、それぞれ独立した副食として嗜んでみようか。香の物の塩気でご飯をかき込み、合間に納豆をズルズルすすり、海苔をぱりぱり齧り、仕上げに生卵をゴキュッと一気に飲み干す。うーん...俺はロッキーか。
 やはり無理矢理ご飯6膳食べるしかないのだろうか。
 何だかんだ言いながら結局はお百姓さん等に頭を下げつつどれかを残さざるを得ない。
 この疑念を同行者に聞いても明確な解答は得られないのが常だ。各人の好みに合わせてどれか一つを選択せよということだろうか。しっくりこない思いだ。

・各種ふりかけ
・岩海苔
・なめたけ

ふりかけといえばノリタマ、エイトマンシール、とくるのが同世代の共通意識だが、レトロは危険なので話題を変えよう。
 丸美屋の独占市場の感があったこの業界も今では百花繚乱の気配だ。特に子供向け市場が活況を呈しているようで、アニメキャラクター等を使い、各種おまけカードを入れて継続的な購買意欲を刺激するという基本中の基本を押さえた商品がずらりと並んでいる。
 傾向として特記すべきなのは、どれも一つのパッケージが数種類の味の小包で構成されている点だ。
 家のガキ御用達のJリーグふりかけを例にとると「のりでドリブル」「サケでシュート」「たまごでキック」「おかかでゴール」各2袋といった具合だ。
 これは子供にまで価値観の多様化の波が押し寄せているという見方もあろうが、私はむしろ子供のうちから情報選択の訓練を施すという無意識の社会意思であると思うのだ。
 今は、ふりかけといえばノリタマしかないというある意味ではラクな時代ではない。氾濫する情報を自分の判断で取捨選択する能力こそ最も問われるのだ。
 いつの時代でも親たちの無意識を敏感に感じ取る子供たちは、自らの嗜好も知らず知らずそれに合わせ、それが子供用ふりかけ市場のトレンドとなっていると考える。
 しかし、完全な自由というのは代償が大きく、非常に厳しいものだから、適度に選択肢をパッケージしている。
 この「パッケージングされた選択肢」こそが子供に代表される次世代のキーワードではないか。おっ、やっとまともなことが書けたぞ。
 岩海苔って何か知っているだろうか。知ってるんだろうな。私、恥ずかしながら去年まで知らなかった。ある宴席で年配の人と話していて、その人が「あっつーいご飯にイワノリをつけて食べたらおいしいよなー」とのたまった。え?イワノリって何ですか、と聞くチャンスを逸したまま話題は流れてしまったが、その時生まれて初めて聞いた。後で別の人に聞くと、ほら、あれだよ、エドムラサキとかゴハンデスヨとか。それで、ああ、あれか、とようやく分かったのである。要するに海苔の佃煮だ。
 その後スーパーで注意してみると岩海苔と大書した瓶が何処にでも売っていた。語彙がひとつ増えたとたんに目に飛び込んでくるのだから不思議なものだ。たいてい四国の四万十川産となっているから海苔は海苔でも淡水産のものだろう、きっと岩にへばりついているから岩海苔というのであろう、などと想像をたくましくできる。
 ともあれ、エドムラサキとかは好物で、「ごはんですよ」、「お父さんがんばって」など、こうしてみると桃屋とともに今までのジンセイを歩んできた感がある。
 ナメタケが食卓に登ったのはいつごろのことであったろうか。エノキ茸が登場したのもそんなに古いことじゃないように記憶するので、それ以降ではあろう。
 これにも一時凝った。自炊してたころ3食ともナメタケ、酒のつまみにスプーンでナメタケという日々がしばらく続いて友達にも呆れられた覚えがある。流石に今では昔の恋人のように静かな気持ちで接することができる。
 近年色々なメーカーが参入しているが、やはり雪印のバランスが最高だ。
 あー疲れてきた。俺は何故こんなことを書いているのだろう。

・とろろ芋
・スジコ
・タラコ

 とろろ芋はおっかない。ちょっとでも口のまわりにつくとカユくなる。でも喉をヌルリと通過する感触は堪らなくイイ。健康にもよさそうだ。
 すりおろすのが勿論定番だが、千切りにしてもシャクッとした歯触りが楽しめて美味しい。
 ところで「すりおろす」の「する」は刷擦摩抹搨摺擂掏のうちどれでしょう。
 さて、今後ともとろろ芋など根菜類をおいしく食べたい人で繊細微妙な神経をお持ちの方はは、これから書くことは決して読まないで欲しい。うーん、どうしようかな。やっぱり書くのやめた。人様の嫌がることを書いて喜ぶのは悪趣味だ。ユーモアには毒があると良くいわれるが「ボディウォッチング」によれば笑うときに見られる体の動きは防御姿勢だという。関係ないか。
 あああ、とってもとっても眠いぞ。スジコ。アナタこそオニギリのタネの王様。我が家は新札幌生鮮市場から歩いて5分にあるため新鮮な筋子がたまに食卓に載る。しかし、漬け方によっても微妙に味が違い、ときたま理想的な筋子に当たったときは、無上のヨロコビを感つつ3膳メシ。北海道に生まれて良かったと思うひと時だ。
 筋子をお湯のなかでバラしたのがイクラだ。テレビで作成現場を見たから間違いないと思う。
 ここである友人に登場してもらおう。彼は学生時代インディアン水車でバイトしていた。水車に捕らえられ漁師が抱えたバタバタもがく鮭の頭をこん棒で殴って成仏させる役目だ。剣道部なのだ。その大量殺戮者の彼が主張するには、海でとれた鮭の卵はスジコ状態になっているが、川を遡上して産卵に向かうときは卵はバラバラに分離しており、それがイクラだという。漁師に鮭のお腹を触らせてもらったから間違いないと言う。
 何だか説得力があってしばらく信じていたが、実際のところはどうなんだろう。本来はそれが正しくて、単価の高いイクラを増産するため筋子をバラす方法をとっているのか、それとも友人の大ぼらか。イクラは美味しいが、小樽の某有名店でイクラ丼を食べたときはマイッタ。そんな有名店とは知らずフラッと入ったところたまたま席が空いて食べたのだが、後で人に聞くとあなた方は非常にラッキーだと言われた。
 でも丼ご飯の上に厚さ1センチの層を成すイクラを食べたときは、生臭さがしばらく残って胸が悪くなり「杉樽は泳ぐ猿の如し」だった。
 そうだ、イクラで思い出したけど、寿司ってそんなにおいしい?魚がそれほど好きじゃないせいもあるが、何故皆さんが寿司をあんなに有難がるか良く分からない。確かに美味しさは感じるけど、涙を流してトロやウニを食べる人の気持ちが分からない。
 私の寿司に対する基本スタンスは「なんで折角のご飯を酸っぱくして、しかも生臭い魚を乗っけて食べなくちゃいけないのさ」というものだ。わはは。タラコも新鮮で塩加減のいいものはえも言われぬ美味しさだ。タラコでも思うのは、食べ物の美味しさのなかで「歯触り」の果たす役割は非常に重要だということだ。
 タラコに皮がなかったら魅力は半減してしまうだろうし、和えものとかソースにバラバラのタラコが良く使われるが、この時もスパイスの役目というより一粒ずつの歯触りが重要な役目を果たしているだろう。もしもイクラの皮を取り去りイクラジュースにしたら美味しいと思うだろうか。ウィンナソーセージもそうだが、袋状のものを圧縮し内圧を高めて破裂せしめる行為に人はなにかしら心地よいものを感じるらしい。小円筒形の気泡を多数配列したビニール包装紙をプチプチ破るのもしかり。マリモ羊羹などは、ゴム製の包装に予め張力を与えることにより疑似的に破裂快感を味わわせる秀逸なものだった。ミュンヘン名物白ソーセージは茹で上がったものを皿に取り、中身を絞り出して食べるものだが、直接皮を噛みきりはしないもののフォークとナイフに歯の代わりをさせている。遠足につきものだった魚肉ソーセージなどがあの独自のケーシングを頑に守っているのは考えてみると不思議だが、生産効率やコストの問題、或いは本家ソーセージのイミテーションという意味よりは、一つにはあの形に対する同胞意識或いは欠落感の充足といった無意識の嗜好(鶉の卵でも2つばかり添えるとハッキリする)であり、今一つは内圧とそれを閉じ込める袋という緊張関係がそれを噛み切ったときの開放状態を想起させるからだろう。

 さて、ご飯に何を載っけるか延々と書き連ねてきたが、事程左様にバリエーションが楽しめる食べ物は希有であろう。この他にもカレー、ピラフ、炒飯、お粥、雑炊、パエージャ、リゾット、お茶漬け、お握り、寿司、各種丼物、炊き込みご飯、粉にしてビーフン、煎餅等の米菓、日本酒ときりがない。
 ご飯をかくまでに愛する私だが、執着心はそれほどない。海外旅行などしても日本食が恋しくて身をよじることはなかった。基本的に口に入るものならば何でもありということもあるが、彼らが日常的に毎日食べているものはとても美味しいのだ。そんなに長期間滞在したことはないけれど、これだったら一生ご飯がなくてもいいな、と思えるほどだった。調子に乗って前フリが異常に長くなってしまった。何を書こうとしてんだっけ。そうだ。最近の米問題について思うところを述べようと思ったんだ。さすがに書き疲れてきたので、悔いは残るが関心のあるポイントをメモ風に記して終わらせてくれ。お願いだ。

・日本米不足の情報でまとめ買いに殺到する人達の集団心理と動物行動学的見地
・自分さえよければいいという率直な感情と日本の宗教史
  何故日本の神々は人の見ていないところには現れないのか。
  翻って西欧精神に重くのしかかるキリスト教的価値観と日本の国際関係
・我が家の日本米はあと何日分あるのか
・外国産米の方が美味しいと感じる人はいないのか
・世界の食料需給の現状と将来はどうなっているのか
・それに関して食料自給、あるいは食料安保の現在における意味は何か
・マスメディア以外の独自情報網は昔の人のほうがたくさん持っていたので はないか
・白米食が一般化したのは室町時代だったろうか
・主食という概念はいつ成立したのだろうか
・主食副食という概念は多分日本特有のものだろうが、GATTに始まる今回の米騒動のキーワードのひとつではないのか
・世界の米食の文化圏はどの様に分布しているのか。アジアは勿論、スペインのパエージャ、イタリアのリゾットなどを考えてみるとかなり広範囲にわたるのだろうか。アラブ辺りでも食べられており、その炊き方は日本以上に手が込んでいると聞いたこともある。
・外国産米一口ずつぐらいをセットした「味見パック」かなんかをスーパーで売り出せばいいのにな。まずは食べてから判断しないと。
・市場原理の必然としての米の配分の偏りを容認するしかないのか、本来の食管制度の如く購入券による配給制度に逆戻りさせるのがよいのか、それとも第3の道があるのか。
・コンビニのおにぎりや弁当、飲食店の米事情は今どうなってるのか等々興味は尽きない