確かに「世代」というのは興味深い概念ではありますが、ラベル付けに必ず伴なう危険があるので、気を付けるようにしています。つまり、様々な個別情報から帰納的に得られる一般的傾向をもって、演繹的に特定の個人を組み立てると、その個人の持つ他の多様な情報を漏らしてしまいがちだからです。(難しそうに書くのは何と簡単なことか。)
 それを踏まえたうえで、僕なりの直感的な世代論を書いてみます。
 ここでは、今の社会に良きにつけ悪しきにつけ大きな影響を与えている団塊の世代を中心に考えます。
 団塊の世代とは狭く言えば昭和22年度から24年度生まれ、平成7年度中に45才から47才になる人達だそうです。
 その代表として、昭和23年、1948年生まれのAさんに登場してもらいましょう。
 彼の今までの人生をたどると、小学校に入学する昭和30年は、戦後の不安定な次期が終わりまさに高度経済成長がスタートしようという時。60年安保は12才、東京オリンピック16才、70年安保22才、列島改造論24才、第1次オイルショック25才、第2次オイルショック31才。
 こうしてみると、今さらながら言えるのは、この人達は「高度経済成長時代の申し子」、「70年安保の人達」、そしてもちろん「ベビーブーマー」と定義されるということです。
 物心ついたときから、寝食を忘れて会社に奉仕する企業戦士の父親を通じて、日本経済の成長を肌で感じ、というよりそれを意識することなく、空気のように当たり前のこととして社会に出るまで過ごして来たはずです。
 ですから、オイルショックの洗礼を受け低成長時代になった今でも、仕事第一、働くことこそ私のアイデンティティというピューリタニズム的な血が消しがたく流れているように思います。
 70年安保の挫折と体制側への吸収ということに関しては、以前外国人横綱曙を引き合いに出して述べたことがあるので、ここでは詳しく語りません。一言で言えば、転向者の負い目と裏返しとしての反動化(表現が過激だな)です。
 これらのことは、時代がそうさせた、という側面があります。これを縦軸とすれば、横軸になるのが、数の多さでしょう。
 同一世代という狭い金魚鉢にごっそり魚を入れた状態で生きてこれば、常にストレスが強く、常に競争し、手が回らない親の注目を得ようとして自己主張し、こびへつらい、他人のことよりまず自分の肉を確保するのが先決だったでしょう。
 さらにそのストレスに耐えられなくなった集団は、ヒッピーになっってブローディガンを崇拝したり、ニューファミリーになって石鹸カタカタいわせたり、無農薬の野菜をかじりながら草の根政治運動をしたり、こちら側も負けていない。
 もしムッとしている方がいたら、それは私の本意ではないので、冒頭の部分をもう一度読み返してください。
 仕事や組織活動、何れにしても社会的なものを自らの拠って立つところとし、結局は体制的で、バイタリティにあふれ負けず嫌いで限りなく自己肯定的。これが最大公約数(正確にいえば主成分に対する寄与率の高いもの)としての僕の団塊の世代のイメージです。
 こういう人は会社員としても「使える奴」であり、実際成長幻想が続いている間は実働部隊としておおいに力を発揮して来たはずです。
 しかし、何せ人数が多すぎる。この世代に起業家が多いというのは、むしろ一人の船頭になったほうが成功するチャンスが多かったからでしょう。
 さて、団塊世代論はきっとたくさんの人が行なっており、ビジネス書として出版され、それをまた団塊の人達がむさぼり読んでいることでしょう。これ以上の議論は彼らにお任せして、ここではちょっと気楽に遊んでみましょう。
 さっきのAさんにまた登場してもらいます。昭和23年生まれね。
 一世代というとおおむね30年ですよね。ということでAさんは彼の父親が30才の時の子供だとします。とすると、彼の父親は大正7年生まれ、同様におじいさんは明治21年生まれ、ひいおじいさんは江戸時代の安政5年。
 もう一人今度はBさん。Aさんのちょうど15年後昭和38年生まれ。彼の親をたどると、昭和8年、明治36年、明治6年。
 こうして並べても何だかよくわかりませんね。
 ここで僕がなんとなく感じるのは、Aさんの家系は「明治精神の人」「破壊の人」 であるということです。
 ひいおじいさんの青春時代は明治維新真っ盛り。おじいさんは明治時代の終わり、乃木将軍の殉死ですね。父親はまさに戦争イコール青春時代でした。
 対するに、Bさんのひいおじいさんの時代は明治の安定期、日清日露の戦勝で世界の一等国になったと国民が浮かれていた頃です。おじいさんは大正デモクラシーの時代。お父さんも徴兵前に終戦を迎え、言い方は悪いけど皆ラッキーな時代に生まれたと感じます。Aさんに対置していえば「江戸精神の人」「創造の人」といえましょう。若干論理に飛躍がありますが、直感によるお遊びということですから。
 これを女性側から眺めると違った見方もあるでしょうけれど、戦前は特に男性社会であったし、私自身女性史に無知なので、それは専門家に任せることにします。
 また、1世代30年としたのは昔は早婚だったけれど子供は多かったので平均的にはそんなものではないかと考えたからで、現在では晩婚化が進んだとはいえ少子化も著しく、価値観も女性的になっているので世代のサイクルは早まっていることでしょう。
 何れにしても本気になって考える場合には歴史上の出来事やその当時の世相も含め、詳細な検証が必要となりましょう。
 ドーキンスがいう社会的遺伝子ミームの存在を認めると、親から子へこれらの家風が延々と受け継がれていくことになります。
 この見方を適用すれば、団塊の世代が社会の実権を握りつつある現在の世相、次の時代の起業家の傾向、新人類と団塊ジュニアの違い、いじめ問題、教師の体罰など、様々な社会構造の裏側に隠されたものが見えてくるような気がします。それらの分析は皆さんにお任せしましょう。(任せてばっかりだな。)
 昭和31年生まれの僕の世代に関していえば、先のAさんとBさんの間に属することになり、これといって強烈な特徴はありません。昭和31年といえば「もはや戦後は終わった」年で、かろうじて戦無派。また「一億総白痴化」が始まった年でもあります。
 30才を過ぎたころに感じたのは、同世代の人間が団塊的価値観と、新時代的価値観の二方向に大きく分裂してそれぞれの世代に取り込まれてしまったなあ、ということです。
 ひとりは年上の世代と一体化して、その先兵として走り回り(このタイプが多数)、もうひとりは年下の友達と一緒になってゲームに興じる遊び人。どっちにしても時代の狭間を生きている世代のようです。
 先日TVでこんな番組をやってました。
 生まれつきの両性具有者の話です。
 最初の人は世界的な女性スキーヤーとして活躍の絶頂にあった二十歳のときにセックスチェックで判明し、スキーを続けるためにその後の人生を男として過ごした人。
 彼?は今では髭も蓄えどう見てもナイスミドル。一児の父として幸せな家庭生活をおくっている。
 次の人は男として育てられたが年とともに女性的な自分を意識し始め、結局手術を受けて完全に女となり、現在は売れっ子ファッションモデルとして望んだ人生を手に入れた。
 最後に出て来た人は、自分の両性をそのまま受け入れ、その時々で男になったり女になったり、自由に楽しんでいるステンドグラス職人。
 僕は漫画の「こちら亀有公園前派出所」を読み出したら止められなくて現在コミックスを50巻(まだ半分)まで揃えてしまい、他の本が何も読めない今日この頃。それに影響されてこないだモデルガンとプラモデルを買ってしまったような人間ですから、どっちかというと遊び人系統でしょうか。しかし、一応仕事の方も押さえておく抜け目なさもハズカシながら持ち合わせています。
 でも、どちらか一方に拘束されるよりは、先ほどのステンドグラス職人のように自由に楽しく生きられたらな、と思うのでした。
 繰り返して断わりますが、このような世代論を各個人に適用するなどという、創造力のないことはしたくありません。マーケッティングをしてるわけじゃないのですから。
 商品管理されたスーパーマーケットや売れる本しか置いてない書店はつまらない。
 人目に付かない片隅の棚に置かれた「掘り出し物」を皆それぞれが持っているはずだし、それを発見できる目をいつも持っていたいのです。