夏目漱石なんて分かったつもりになっていた。親が見栄で買った日本文学全集(パラフィン紙が邪魔だった)を中学生の内にほとんど読んでしまった。何と嫌なガキだったのだろうか。
僕の中では過去の文豪,名作,古典のカテゴリーに押し込んで,再び読もうという気はさらさらなかった。
百合の香りが好きなのは多分「それから」の影響だが,その百合の匂いの彼方に漱石は置きっぱなしだった。

知ってる人もいると思うが,最近,著作権が切れた作品をテキストデータにして配布しているプロジェクトがある。青空文庫という。
雑誌の付録CDにその一部が入っているのを発見し,見ると,漱石をはじめとして膨大な量の作品が並んでいる。
よく,CD一枚で新聞何年分のデータが記録できる,などという表現が使われる。まさにその通りで,本1冊の重さだとか文字量だとかが体に染みついているものにとっては,頭では分かっていても,感覚として信じられない気がする。

試しにワ−クパッドというモバイル機に岡本綺堂「半七捕物帖」の第1回目,河豚太鼓と,漱石の「虞美人草」を入れてみた。
通勤時など時間の隙間があると,胸ポケットから取り出して気楽に読んだ。
「半七」の方は,いかにも古書店から見つけてきた本のような,古くさい匂いがする。でも,話は読ませるし,当時の庶民生活がうかがえるようで興味深かった。

驚いたのは漱石「虞美人草」であった。圧倒的な知識に基づく想像力あふれる比喩の連続と,人物配置,ドラマ性,主題の明確さ,奔放な遊び,どれをとっても超一流であった。文豪という表現はやはり理由のあることだと改めて認めた。

本文中でも触れられているが,シェークスピアを意識しているように思われた。無数の評論があるから,その辺は誰かがきっと言及しているのだろう。底本でもあるのかも知れない。シェークスピアを全部読んだ訳ではないので,それは分からない。

資産家の当主で哲学を専攻する,ハムレット「甲野さん」と,腹違いの妹,クレオパトラ「藤尾」を軸に,甲野さんの友人で藤尾を懸想する快活な常識人ファルスタッフ「宗近君」,藤尾が誘惑する優柔不断な秀才詩人,アントニー「小野さん」,小野さんの婚約者で恩師の娘,日陰の花オフィーリア「小夜子」,甲野家の資産を受け継ぎたい,マクベス夫人「藤尾の母」などの人物が配置される。(単なる印象ごっことしてもファルスタッフは大分違うな。誰がいいだろう。)

物語は,小野さん,藤尾,小夜子の三角関係を骨格として,家督を放棄しようとする甲野さんと,本心を世間体にくるんだ藤尾の母との確執に肉付けされる。
のどかな京都の山路から始まり,宿の窓縁で聞く琴の音,イルミネーションが煌めく博覧会,土砂降りを疾走する人力車,情景も鮮烈だ。
そして,道化役で真実の人宗近君が導くままに劇的なクライマックスへと上り詰めていく。

人物や構成が緊密で,演劇的な緊張感が貫かれ,一方の博覧強記のト書き部分のとの相関が見事である。
後期傑作群の,人間性の深淵をのぞき込むような苦しさはないが,その分若々しさにあふれ,ひとつの貴重な真実を模索している。

今回は漱石再発見の驚きであり,他の作品も読み直せば,きっと今までと随分違う感想に至るに違いない。
どうしようか。故郷は遠きにありて想うものだろうか。