もうすぐ春だ。陽射しの匂いが変わりつつある。道端にはあいかわらず雪が積もっているが、その白さがまぶしい。
 きれいだ。
 それだけでもスパイク規制の意味があったと個人的には思ってしまう。
 ブユ来たりなば貼る唐辛子、いやいや冬来たりなば春遠からじ。
 支雀師匠は言っていた。笑いとは緊張からの開放であると。
 大きな喜びは緊張状態からの開放という推移にこそある。
 常春の地に快適さはあっても喜びはない。
 長く暗い冬があってこそ百花繚乱の喜びがある。

 音楽の喜びもそこにある。
 アフリカの大気を一気に凝縮した狂気のドラミングからその後の静寂、鳥たちの遠い叫び。
 それが音楽。
 最初は文楽と訳したかったが紛らわしいので文学とせざるを得なかったってのは悲劇だ。
 クライマックスのカタルシスがなくとも最後のページを閉じたあとに広がりつづける感情こそ文楽だ。
 視線の操作、色彩の官能、集中と拡散、拒絶と受容、違う違う、そうじゃない、美術は窓だ。君の広大な想像力への入口だ。ガラスを割って飛び込んだときにこそ開放の喜びが訪れるだろう。
 男と女、もちろんだ。緊張、集中から開放、拡散へ。人生の苦渋から死への開放。これも喜び?
 危険だ。
 桜の木の下に死体が埋まっていると言ったのは誰だったか思い出せない。
 春は死の匂いがする。
 発情と狂気の季節。
 君には春の声が聞こえるか。
 僕にはまだ聞こえない。

 今気がついたが、相撲はまさに緊張を高めて一気に開放させるという手順を踏んでいる。仕切りを繰り返して一触即発のぎりぎりまで力を押さえ込み、一気に爆発させる。こんなスポーツが他にあるだろうか。
 武蔵丸と貴ノ浪が大関に昇進した。おめでとう。
 私はどちらかというとアンチ二子山だ。というのはどうもあの部屋はユーモアに欠けるきらいがあるからだが、その中にあって貴ノ浪と安芸の島は色々面白い話題を提供してくれる。
 例えば安芸の島が金星を挙げたりすると、インタビュー担当のアナウンサーはみなため息をついたそうだ。何故かというと彼に何を聞いてもアーとかウーとかのうめき声しか返ってこないからだ。(だけどNHKのアナウンサーはどうして揃いもそろってインタビューが下手なんだ。)その極めつけの無口の彼が、昨年婚約したのだが、そののろけることのろけること。婚約会見では二子山親方が「あいつあんなにしゃべれたのか」とびっくりしたという。
 わははは。
 サナダ虫やら肩の手術やら試練が続いたが、奮起を期待したい。
 貴ノ浪もまた変な奴で、巡業中他のお相撲さんが皆昼寝してる最中も精力的におちゃらけているらしい。佐渡ヶ嶽部屋の琴富士と並び称される二子山部屋の宴会部長だそうだ。
 初場所後の福祉大相撲を見ていると、女性歌手とのデュエット大会があったが、ここでも貴ノ浪は森口某というタレントと示し合わせて「イェイ」とかブリッコしていた。大関の風格も何もあったもんじゃない。相撲内容については懐の深さに頼って土俵際で逆転する相撲が多く、前に出る相撲が殆ど無いとか型が出来てないとかジジくさい批判があり、本人も勇往邁進とか言ってその改善を健気に宣言しているようだが、私としてはそんなことに耳を貸さず今のままの変則相撲にさらに磨きをかけてほしい。
 一方、この貴ノ浪とオトモダチのマルちゃんこと武蔵丸は大関の使者を迎える際「日本の心を持って」と決意をのべた。北海道人の私には日本の心とは一体どんなココロなのかもひとつ良く分からないが、いち早く筋力トレーニング室を設置するなど合理的な考えを持つ武蔵川親方の優れた戦略というのが私の見方だ。

 お相撲さんが昇進時などににヨロコビを表現する場合、付け人が騎馬戦の隊形をとり、その上であいまいなバンザイないしガッツポーズをとることが恒例化している。今回も嬉し恥ずかしの表情でポーズをとった両新大関が各メディアで紹介されたが、ある雑誌のマルちゃんの写真を見てアレッと引っかかるものがあった。
 というのは、マル関も例によって付け人の馬上で力のないガッツポーズを取っていたのだが、その握りこぶしを良く見ると親指と小指が両手ともピンと立てられているのだ。キャプションを見ると「日本ハワイ混合のポーズ」とある。してみると親指小指ピン立てはハワイ式「ヤッタゼ」表現法なのか、と納得してその時はページをめくった。

 数日後、そういえば、と思い当たることがあった。
 自慢じゃないがワタクシの脳神経ネットワークはずたずたで、譬えて言えば、ススキノから深夜帰還まであと一歩の玄関前でゲロした切れ切れの味噌ラーメンのようなものだ。(汚ねえな)それでもごくごくタマーーに昔の便所の20W電球のようなウスボンヤリとした閃きを示すときがある。
 このとき思い当たったのは、ピン立てポーズを何かで読んだことがあるな、ということだった。
 調べてみるとあったあった。
 デズモンド・モリスの「ボディウォッチング」という本に出ていた。
 この本は初版のときに買い損ねていつしか姿を消していたのが、1年ぐらい前かな、文庫となって再販され喜んで買ったものだ。内容は同じ著者の名著「裸の猿」(ぜひ一読を)や「マンウォッチング」に比べると突っ込みが足りずちょっとがっかりしたが、面白いことは面白かった。
 さて、この本によるとあのピン立てには驚くべき歴史が隠されていたのである。
 ハワイの英雄はカメハメハ大王であるが、王の兵士のなかにある若物がいた。若者は弓の名手として頭角を現し、海を渡って侵略してきた敵をさんざん悩ませた。一計を案じた敵は若者と将来を誓い合った娘を人質として奪い、彼の身柄を要求した。皆が止めるのを押し切って敵の船に単身乗り込んだ若者だったが、娘は辱められたことを恥じてその場で海に身を投げ、彼も弓を弾く指を一本切り落とされて帰されるという、このうえない屈辱を味わった。復讐の鬼となった彼は、死に急ぐように戦い、さらに2度捕虜となったが、最後の合戦のときには鬼神の如き活躍で祖先の土地を守り抜いたのである。燃え盛る敵船上で勝利を宣言するため高々とかざされた彼の手は親指と小指しか残っていなかった。若者は全てが終わったことを悟ると、そのまま娘の待つ海の底へ身を投じたのである。
 これがあのポーズの由来だが、何と悲しくも美しい話だろうか。
 ハワイの人達でさえ、日常何気なく使っているこのポーズにこのような伝説があるとは夢にも思っていないだろう。
 それもそのはず。これは今私が思いついた作り話だからだ。わはは。
 御免。今度こそ本当に狼だ。
 我々が「ちょっと一杯寄ってきますか」と言うとき、それに付随する動作は口の前でお猪口を持つ手つきをして、そのお猪口をキュッと横に引っ張る仕種をする。このとき多少手首のヒネリを入れると完璧だ。といっても実際にそれをやる人は見たことないが。あるいは、口の前でグラスをクッと傾ける仕種も同じ意味だ。
 「ボディウォッチング」によると、このグラスを傾ける仕種は、何かを飲むことを表す世界共通のサインのようだ。
 しかし例外もある。
 スペインでは握り拳の親指と小指だけを立てて(例のポーズ)この親指で自分の口許を指し、手首を自分側に傾ける、というのが「一杯やろうや」とかのポーズであるという。これは何かというと、革袋に入ったワインなどを注ぎ口から直に飲んでいるところを表しているのだ。古い習慣がそのまま仕種として残ったという、言わば生きた化石のようなものだ。
 これが恐らく大航海時代のスペインの船乗りたちによってハワイに伝わり、本来の意味が失われてあのマルちゃんのポーズとなったらしい。
 面白い話じゃないか。さて、いよいよ今日から春場所だ。貴ノ花の綱取り成るか、曙の巻き返しは、両新大関の活躍如何、新関脇武双山はどこまでやれるか、等々話題満載。
 北海道も春が近いし、胸の膨らむ想いだ。