「お、俺は今、猛烈に感動している。」
 とボウダの涙を流したのは実は右利きの星君だった。

 思えば私がこの飛遊馬じゃなくてコンピュータと出会ったのは一昨年の風薫る5月であった。
 この神秘の森にさまよいこんで以来、末期活字中毒患者だった私は、新しいヤクに魅入られたかのごとくそっち関係の書籍雑誌を読みふけった。
 あ、「今 飛遊太さん」て広い日本のどこかに..いないか。
 ほぼ1年以上にわたって、まっとうな人達が読むような小説雑誌の類はほとんど手にしなっかったことになる。
 職場が変わった所為で主な読書時間であった地下鉄通勤往復40分/日×約25日/月×12か月/年=約200時間/年が失われたことも大きい。
 さすがに、コンピュータの理解もある程度深まって初心者向けの本には手を出さなくなると、その隙間を埋めるように慣れ親しんだ一般書籍コーナーにも目を向け、ぽつぽつとはめぼしいものを買っておくようになった。何だか長い夢からさめたような気がした。
 ところが、それらの本を読もうとしても、まるで長い不在を詰り拒否されているかのように、なかなか世界に入って行けなかった。
 そこで、数学、科学関係など電脳に馴染むもの、軽くてアハハと読めるもの、エッセイ、ノンフィクションと言う具合に、知らず知らずにリハビリ的な読み方をして、昨年雪が降り出す頃からようやく自分の中で折り合いをつけられるようになった。古女房が新しい女を許した..というのは非常にまずい比喩だった。反省。
 とにかくまた懐かしき異世界へのチケットをポケットに忍ばせるようになった。

 最近特に印象に残ったのは、嵐山光三郎の「続素人包丁記」(講談社文庫)である。 何年か前の笑っていいとも増刊号に進行役として顔を出していた編集者だが、最近テレビで見かけるエジプト学者の吉村作治とゴッチャになってよく思い出せない。
 名著「壇流クッキング」(壇一雄著)でガツンとやられて以来、料理本に掘り出し物が多いことに気付き、とりあえず買ってしまう。私は料理に興味を示すことと想像力に溢れていることは、密接な関連性があるという偏見を持っているのだ。
 世界中の尊敬を集めているピアニストの一人であるミケランジェリは、私にとっても唯一無二の人だが、彼が客をもてなすため真剣な表情でオーブンの前に座り込み、日がなローストチキンの面倒をみていたと言うエピソードを最近知って、さもありなんと膝をたたいたものだ。
 とにかくこの「続素人包丁記」にはブットんだ。「続」でない方も以前読んだが、その時は確かあまりピンと来なくて、半分読んで中断したはずだ。
 化けるというのはこの事かと思ったが、私の方が変化したのかもしれず、前のをもう一度読み返さなくてはと考えている。
 内容を言っちゃうと興味が削がれる恐れがあるから止めるが、これは料理のマニュアルでもグルメ本でもない。
 無理矢理言うなら、騙されるヨロコビに満ちた文化論である。
 チョットだけばらすと、「土俵は鍋だ」「関取は豆腐で花道は電気コードだ」といった類だ。これにはヤラレタ。

 さて、昨年末ヨーロッパにフラッと行く前、十数時間のフライト中などの読み物を物色していて目についたのが、ケン・フォレット作「大聖堂」(新潮社文庫)である。
 イギリス中世世界の大聖堂建設をめぐる人間ドラマだという。
 ケン・フォレットの名は「レベッカへの鍵」というスパイ小説がテレビドラマ化されたのを見たことがあり、とても面白かった。本は読んだことがなかったがスパイ物ばかり書いていると思ったらこんなものも出していたのか。

 ここ何年か、中世的な物に強く惹かれている。
幸田文さん流に言えば心の種の一つが目を出したのかもしれない。
 太陽黒点の研究家が、暗黒時代と言われた中世は実は今以上に温暖で実り豊かな時代だった、と主張する本を随分昔に読んだのを覚えている。
 初めて海外旅行した時に訪れたザルツブルグの中世時代の城で、石造りの部屋の暗闇から剣の触れ合う音が聞こえたような気がした。
 ウィーンの象徴聖シュテファン教会の鐘の音を聞いてゴシック建築の尖塔を仰ぎ見ると、私は一人の中世市民であるかのように感じられた。
 ブリューゲルの絵を見ていると農民男女の卑猥な冗談に思わず笑いそうになり、ガキどもをからたいたくなった。
 もちろん日本の中世にも興味がある。鎌倉時代の石積みの墓をじっと見ていて蚊に刺されたのは、一昨年のお盆の頃だし、昨年のNHK大河ドラマ「信長」は夏頃に「画面が暗い」との不評を聞いて早速見始めた。案の定、各地のお城を見物したとき感じたのと同じ中世建築(厳密には違うが)のほの暗さが漂う、秀逸な舞台、照明だった。
 しかし日本文化を云々するたびに、プラキストン線から向こうの人達には結局かなわないと感じてしまう。子供の頃金持ちのおじさんに連れられ蔵前国技館の升席で若の花を見た、とか、裏の家の小唄のお師匠さんの所へ梨界の貴公子が忍んで来たのを目撃したことがある、とかいった経験の一つ二つもないとやはりツライ。札幌のビル街にお神輿は似合わないだろう。気候風土もヨーロッパの方に近い気がする。なんたってローマの緯度は函館ぐらいだ。
 西欧中世に興味を持ち出した頃関連する本を物色したが、日本におけるその道の権威阿部謹也氏の独占市場であった。カラー写真を多用した非常に美しい装丁の本が多く、内容もちらっと立ち読みしただけで面白そうなのが分かるが、高価で手が出なかった。最近になってぼつぼつ文庫化されたのを読んでいる。
 中世美術にも目を向けると目眩を起こしそうなほど素晴らしい。聖母マリアの素朴な悲しみには無宗教の私でも心打たれるし、クラナッハのヴィーナスの妖しさはどうだ。当時のキリスト教やイコノグラフィーの知識が深まると一層虜になるであろう。宝の山を発見した気分だ。
 
そこで「大聖堂」だが、一冊2センチ弱もあろうかと言う文庫本で上中下巻の3冊からなる大作である。迷った挙げ句3冊ともヨーロッパへ持っていったが結局上巻の半分しか読む時間がなかった。中下巻はただ西欧の空気を吸わせて来ただけになる。
 それを、今日ついに読み終えた。面白いなんてもんじゃない。暮れから正月と私はイギリス中世世界の住人だった。
 それは皮肉に見ればセンチメンタルな所もあり脈絡のない所もあり深みがないと言えば言えるだろう。だが一瞬たりとも退屈させない物語の力が紛うことなくあるし、何よりも中世が舞台ということが強烈な世界観を形成している。人が簡単に死に、生まれ、素朴に喜び、悲嘆にくれる。近代精神とはいったい何のかを強く意識させられるし、日本的な考え方との大きな隔たりも既に拭いがたく存在する。そしてそれら一切を超えた普遍の物は何なのか。
 いつかまたどこかの大聖堂を訪れたときには、この物語の愛しい出演者一同と一緒にそびえ立つ尖塔を見上げることになるだろう。
 ヨーロッパの匂いがまだ体に染み付いているときに(ちゃんとシャワーは浴びているけど)こんな物語を読めたなんて、なんて贅沢なことだろうと思う。
 そこで、冒頭の発言となる訳である。