音楽の2冊

いつものように書店をうろうろしていて、音楽に関する新書が気になった。
偶然、別な音楽本も目に入ってきた。
逆らわずに購入。

2冊とも秋めいた大通公園で読み終えた。

目を上げると、木々の葉は夏の若さを失っている。
もうすぐ紅葉するだろう。

僕は、心に去来する感想を反芻していた。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田 暁生
中央公論新社
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この作者の「西洋音楽史」には大いに感銘を受けたので、どのような「音楽の聴き方」を提示してくれるのか期待大だった。

彼の主張するところの本質は、おそらく「音楽をいかに語るか」ということだ。
言語と音楽との不可分性を説く。

「言葉では表現できない崇高な何か」が音楽に内在するという「言葉による評論」、はそれ自体矛盾しており、ドイツロマン派以降の音楽批評の産物であると断じ、それを丹念に検証しようとしている。

歴史の文脈から見ても、音楽はノンバーバルなコミュニケーション手段としての役割をずっと果たしてきており、もう一度音楽と言語の関係性を取り戻して鑑賞することに意義がある、との主張だろう。

もう一つの軸は、レコードから始まり最近のデジタル機器に至る再現メディアが、音楽の本質までも変えてしまう危機をはらんでいること。
ポータブルで断片化した音響が「音楽」と言えるのかという警鐘である。

さらに、プロの演奏家によるコンサート形式に対する歴史を踏まえた疑問と、自らの言葉を持ったアマチュアリズムの復権などにまで筆は及び、非常に興味深く、啓発される。

ボクたちクラシックつながり―ピアニストが読む音楽マンガ (文春新書)
青柳 いづみこ
文藝春秋
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並行して読んだのが、青柳いずみこの本。
これは『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』などの音楽漫画を題材にとり、現実のコンクールの裏側や、名ピアニストや指揮者のこぼれ話や天才ぶり、日本の音楽界、留学の現状など、楽しく解説してくれる。
もちろん相変わらず文章はうまいし、題材は軽いがその考察は率直で的確だ。

この二冊の本を読んである思いが生じた。
それは、やはり音楽の本質にかかわることだ。

岡田が言うように、音楽芸術の特別さを崇める行為が、近代の矛盾した作為であったとしても、音楽が歴史的にいわば「言語的実用性」を備えてきたとしても、やはり、僕は何かもっと生理的な本質を音楽は備えているように直観するのだ。

なぜ協和音(民族ごとに多少のずれがあっても)が心地いいのか、なぜ不協和音からの解決に安堵するのか。
その辺の科学的考察が僕の以前からの好奇心の対象であるが、岡田本では語られない。
あくまで、文化、記号としての考察に重点が置かれており、意図的に生理的な曖昧さを遠ざけているように思われる。

その点、青柳本の最終章で、こんなふうに言っている。
それは、「ピアニストは本当に不良債権か?」という章。
小さい頃からピアノを習い、高額な授業料の音大で勉強し、人種差別に遭いながら留学生活を送り、コンクールを受けて箔をつけ、プロのピアニストとして凱旋する。
そこまで至っても、演奏会をマネージメントしてくれて生計を保てるのはごく一握りの演奏家のみであり、ほとんどは、赤字覚悟で自主公演を開き、レッスン料などで生活している。そこにさえ至らない音大卒は死屍累々。
こんな現状が分かっていながらなぜ人は音楽に向かうのだろうか。

青柳は、それこそが音楽の力だという。なにか人を引き付ける特別な力。
他の芸術とは異質な生理的な誘因があると言いたいのだろう。
そこにプロもアマもない。

僕にはとても共感できた。

岡田本は文化論としては卓越しているが、本人も書いているように、“与えられたテーマ”のせいか、相当悪戦苦闘している。
逆に青柳本では、殆どお喋りに近い内容がなのに、無意識に音楽の本質をビビッドに伝えてくれたように感じた。
その差分こそが、「音楽」なのではないか。

そして、”それを感じる人”は密かに思っている。
音楽の能力には不公平な個人差がある。
理不尽なのだ。
と。

それがこれらの本を深いところで隔てているように思ったのだ。

ついでに言えば、「のだめ」と「ピアノの森」にも、その違いをいつも感じる。
僕には「森」からは音楽が聞こえてこない。
断然「のだめ」派です。

My評価
岡田本:★★★☆☆
青柳本:★★★★☆

ps
この記事は特に、自分には音楽の女神が微笑んでいるかのような、上から目線の評価だと自覚してます。
でも許してください。
各著者に対する尊敬の気持ちは全く失っていませんから。

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