ノーベル賞とモーツアルト

久しくWEB更新の意欲を失っていたが,ミャンマー旅行記を書いたのを期に再開しようと思う。

TVでノーベル賞受賞者の討論会をやっていた。少しだけ見た。
ニュートリノ天文学で受賞した小柴教授と他の欧米人受賞者の間で,あるテーマについて議論していた。

小柴教授の主張はこうだ。
科学的認識,つまり今回の受賞者が見出したような発見,知見はいずれ誰かによって成されるものだ。
たとえアインシュタインの相対性理論でもいつかは若い頭脳によって同じ結論にたどり着いたであろう。
それは科学的認識には主体と客体,自然界に存在するものとそれを発見するもの,の区別が厳然としてあるからだ。
それに比べ例えば音楽はその区別がなく一体の感覚であるから,モーツアルトの書かれなかった音楽は,何百年経っても発見されないだろう。

この主張に対し,欧米の受賞者たちは,自らのイマジネーションの独創性を擁護すべく,統計論などを持ち出して反論に努めたが,誰が聞いても説得力はなかった。

これを聞いて僕は二つのことに思いが至った。
一つは,小柴教授の主張がアインシュタインとコペンハーゲン学派の論争を思い起こさせたこと。しかも皮肉にもアインシュタイン側の世界観,神の創造したイデアを前提としているように思われたこと。ただし世界最高クラスの頭脳の彼らのこと,そんなことは百も承知の上で,量子論的世界観を含めた自然の真理についての議論であろう。

もう一つは,僕がこんな文章を書こうと思った動機でもある。
それは,小柴教授は「自然界の本質を発見させてもらっている」という謙虚な姿勢であることだ。だから,いつかは誰かが同じ事を見出すというのだ。これは,非常に仏教的,というか東洋的な態度である。
それに比べ欧米の学者連中は「自然界が隠している本質を,ワタシの力で引っ張り出した」という相変わらずの態度であるように思われた。

これは,小柴教授が観測学者で,欧米の学者が理論学者が中心であるという違いだけではあるまい。
凡世界的な知性を持つノーベル賞受賞者にして,やはり東は東,西は西なのかと考えさせられた。
今さらだが,これを埋めるには対話と相互理解しかない。
それと,すべてを超越するモーツアルト!!

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