「水滸伝」と「大聖堂―果てしなき世界」
水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)
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北方 謙三
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大聖堂―果てしなき世界 (上) (ソフトバンク文庫 フ 3-4)
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ケン・フォレット
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皆さんもそうかもしれないが、僕の読書傾向として、エッセイや解説書ばかり読んでいる時期と、小説にはまっている時期が交互に訪れるような気がする。
近頃は後者の時期らしく、なぜか次から次へと長い物語を漁っている。
その中で、今回は北方謙三の水滸伝とケン・フォレットの大聖堂を取り上げてみる。
北方水滸伝は、文庫本で19冊という大長編である。
オリジナルの水滸伝は講談話の寄せ集めらしく、時制や人物描写などの破たんが随所にあるらしい。
これを北方は、登場人物一人ひとりに独自の際立った性格付けを施し、彼らを矛盾のない時空間のなかで自在に遊ばせ、壮大な歴史劇、人間ドラマとして再構築した。
水滸伝を知っていてもいなくても、歴史好きでもそうではなくても、読者は十二分に物語に没入できる。
実際僕は水滸伝の中身を知らなかった。
昔NHKの人形劇でやってたな、とか、「梁山泊」という言葉ぐらいの知識。主人公がだれかさえ知らなかった。
北方水滸伝の魅力はなかなか伝えきれないけれど、とにかくキャラクターが立っていること。
宋江、晁蓋をはじめとする梁山泊側も、それを追い詰める李富など官軍側も人間臭い魅力にあふれている。これだけ登場人物が多いのに、今でも名前を聞くだけで、各々の物語が浮かんでくる。それぞれが独白する胸中の熱い思いこそが、北方が最も伝えたかったことなのだろう。
それを支えるのが、舞台背景としての、世界観のリアリティーが高いこと。
国全体の経済のあり方、組織ごとの経営戦略や人事、戦闘におけるロジスティクス、情報戦の重要さ、などの社会的要因を、地理上の必然性や歴史考証を踏まえ丹念に書き込んでいる。
細部の充実により、我々は物語世界の必然性を疑うことなく、そこの住人となれる。
そして、そんな事より、想いの熱さを打ち込む剣のような文体が紡ぐ、物語の面白さ。
それに尽きる。
巻を措く能わず、という状態が19巻も持続する、読み手としてこんな幸せな時間はない。
読み始めたら最後、壮絶なゴールまで走り続けることを止められないだろう。
My評価
★★★★★
もう一つの「大聖堂―果てしなき世界」
これもまた文庫で上中下三巻、一冊当たり670ページ、計2千ページを超す大長編だ。
前作「大聖堂」から18年後に上梓された続編だ。
書店でこれを見た時には目を疑った。(文庫派なので単行本発売時は知らなかった)
世界的ベストセラーとなった前作に感銘を受け、大傑作だと思っていたから、その続編が出てるなんて信じられい僥倖だった。即購入したのは言うまでもない。
もちろん、今回も面白くて、漫画や雑誌に流れがちな僕の読書時間を完全に独占した。
14世紀のイギリス、前作で建てられた大聖堂が聳えるキングズブリッジの街。
物語の支点は、市民たち、修道院、そして領主たる貴族であり、それぞれの思惑によって結託したり対立したりしていく。
大聖堂にイングランド一高い尖塔を立てたい建築職人マーティン、彼の恋人で羊毛商人の娘カリス、その友人で貧しい農民の娘クヴェンダ。対するにカリスの従兄で狷介なマザコン修道院長ゴドウィン、マーティンの弟にして残忍な騎士ラルフ。
この続編でもマーティンによる大聖堂の建築が形式上縦糸となっているが、どう見てもカリスの壮絶な一代記が主軸である。聡明で機知に富み、何事にも屈しない意思と勇気で困難に立ち向かっていく彼女の姿は、読者の胸に何か温かく爽快な気持ちを残すだろう。
そして、もう一人、宿敵ラルフにこれでもかというぐらい不幸な境遇に蹴落とされるクヴェンダの諦めない強さ。この二人が間違いなく物語を牽引している。
そしてそれらすべてを覆い尽くす黒死病ペスト。
とにかく一気に読まされた。
しかし、次々とメロドラマのように不幸や困難が襲ってくるので、救われない気持が続く。
もちろん最後のカタルシスは約束されているけれど。
また、百年戦争や国王にまつわる謀略、ペストや魔女裁判など、歴史や生活もきちんと書き込まれているが、前作のゴシック建築そのものへの知的興味は失われ、物語の中心性が少し希薄には感じた。
そのあたりが、作者が18年もの間続編を書かなかった理由に思える。もう書き尽したという気持ちが強かったのだろう。
でも、大聖堂ファンとしては、これほど楽しめたことを幸せに思う。
前作はたまたま読書中に欧州旅行に行き、持って行った。
今作も読んでる途中で台湾旅行となり、持って行った。
全くの偶然だが、なにかの因縁かな。
My評価
★★★★☆
さて、この二つの物語を並べたのには意図がある。
調べてみると、北方(1947年生れ)とフォレット(1949年生れ)はほぼ同世代で、ともに80年前後に本格デビュー、以降ハードボイルドや冒険小説で人気を博した。
そして89年、計ったようにに北方は南北朝時代を舞台とした「武王の門」、フォレットは「大聖堂」という初の歴史小説を発表している。
このようによく似た経歴を持ち、その博覧強記ぶりと、とにかくぐいぐい引っ張る語り部としての力量の凄さ。共通するところが多い。
しかし僕は、やはり、と思った。
東は東、西は西だと。
たとえば、戦闘の書き方にしても、水滸伝では、兵達は一つの材料であり、視線はほとんど指揮する武将からのものだ。カメラは俯瞰して全体をとらえる場面が多い。一兵卒の生死は見えてこない。
一方、大聖堂の戦闘シーンでは兵個人個人の戦いにスポットが当てられる。カメラもアップが多用され、剣と鎧がぶつかり合う音や、負傷兵の呻き、血みどろの死体などがより鮮明に描写されている。指揮官の姿は遠い。
個々人の事情を抱えながらも、それを超越する義に殉ずる者たちを描く水滸伝。個人よりも集団優先。負けると分かっていても玉砕していく。
対して、ノブレス・オブリージュや神への献身を掲げながら、個人の利のためには残忍な裏切りをものともせず、平気で欲望を優先する大聖堂の出演者。集団より個人が第一。勝つためにあらゆる手を尽くす。
一話完結的エピソードを淡々と積み重ね、次第にクライマックスに持っていく、シューマン的な手法の水滸伝。
最後まで未解決の緊張を持続する体力で、一編の長大な叙事詩を引っ張り、最後に開放させる、トリスタン的な大聖堂。
そのほか、従属的な女と主体的な女性、他者との未分化故の優しさと個人の孤独がもたらす酷薄さ、多元論的世界観と善悪二元論。農耕民族と騎馬民族。
あらゆる点で、抜きがたい対照的な東西文化の違いを感じたのだ。
当時の国や歴史の違いともいえるけれど、むしろ現代の北方とフォレットの精神構造の差異がそのまま映されているといえよう。
グローバル化された近代に生きる我々でさえ、やはりこれほど顕著に違うものかと改めて思った。
いやいや、それは当然のことか。彼らはまさに登場人物たちの正統的な子孫なのだから。
人間としての基本的な感情やモラルは世界共通で、だからこそ両著から巨大な感動を得た。それは異文化理解の上で当然の前提である。
どちらがいいということではなく、
そんな違いがあるからこそ世界は面白い。
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